4−94]査した。しかし別に見るものも何にもない。まことに御恥しい部屋だ。窓の正面に箪笥《たんす》がある。箪笥というのはもったいない、ペンキ塗の箱だね。上の引出に股引とカラとカフが這入《はい》っていて、下には燕尾服《えんびふく》が這入っている。あの燕尾服は安かったがまだ一度も着た事がない。つまらないものを作ったものだなと考えた。箱の上に尺四方ばかりの姿見があってその左りに「カルルス」泉の瓶《びん》が立《たっ》ている。その横から茶色のきたない皮の手袋が半分見える。箱の左側の下に靴が二足、赤と黒だ、並んでいる。毎日|穿《は》くのは戸の前に下女が磨《みが》いておいて行く。そのほかに礼服用の光る靴が戸棚《とだな》にしまってある、靴ばかりは中々大臣だなと少々得意な感じがする。もしこの家を引越すとするとこの四足の靴をどうして持って行こうかと思い出した。一足は穿《は》く、二足は革鞄《かばん》につまるだろう、しかし余る一足は手にさげる訳には行かんな、裸で馬車の中へ投《ほう》り込むか、しかし引越す前には一足はたしかに破れるだろう。靴はどうでもいいが大事の書物がずいぶん厄介だ。これは大変な荷物だなと思って板の間に並べてある本と、煖炉《だんろ》の上にある本と、机の上にある本と、書棚にある本を見廻した。せんだって「ロッチ」から古本の目録をよこした「ドッズレー」の「コレクション」がある。七十円は高いが欲い。それに製本が皮だからな。この前買った「ウァートン」の英詩の歴史は製本が「カルトーバー」で古色|蒼然《そうぜん》としていて実に安い掘出し物だ。しかし為替《かわせ》が来なくっては本も買えん、少々閉口するな、そのうち来るだろうから心配する事も入るまい、……ゴンゴンゴンそら鳴った。第一の銅鑼だ、これから起きて仕度をすると第二の「ゴング」が鳴る。そこでノソノソ下へ降りて行って朝食を食うのだよ。起きて股引を穿《は》きながら、子《ね》にふし銅鑼に起きはどうだろうと思って一人でニヤニヤと笑った。それから寝台を離れて顔を洗う台の前へ立った。これから御化粧が始まるのだ。西洋へ来ると猫が顔を洗うように簡単に行かんのでまことに面倒である。瓶《びん》の水をジャーと金盥《かなだらい》の中へあけてその中へ手を入れたがああしまった顔を洗う前に毎朝カルルス塩を飲まなければならないと気がついた。入れた手を盥から出した。拭くのが面倒だから壁へむいて二三|返《べん》手をふってそれから「カルルス」塩の調合にとりかかった。飲んだ。それからちょっと顔をしめして「シェヴィング・ブラッシ」を攫《つか》んで顔中むやみに塗廻す。剃《そり》は安全|髪剃《かみそり》だから仕《し》まつがいい。大工がかんなをかけるようにスースーと髭《ひげ》をそる。いい心持だ。それから頭へ櫛《くし》を入れて、顔を拭て、白シャツを着て、襟《えり》をかけて、襟飾をつけて「シャッター」を捲《ま》き上ると、下女がボコンと部屋の前へ靴をたたきつけて行った。しばらくすると第二のゴンゴンが鳴る。ちょっと御誂《おあつらえ》通りにできてる。それから階子段《はしごだん》を二つ下りて食堂へ這入る。例のごとく「オートミール」を第一に食う。これは蘇格土蘭《スコットランド》人の常食だ。もっともあっちでは塩を入れて食う、我々は砂糖を入れて食う。麦の御粥《おかゆ》みたようなもので我輩は大好だ。「ジョンソン」の字引には「オートミール」……蘇国にては人が食い英国にては馬が食うものなりとある。しかし今の英国人としては朝食にこれを用いるのが別段例外でもないようだ。英人が馬に近くなったんだろう。それから「ベーコン」が一片に玉子一つまたはベーコン二片と相場がきまっている。そのほかに焼パン二片茶一杯、それでおしまいだ。吾輩が二片の「ベーコン」を五分の四まで食い了《おわ》ったところへ田中君が二階から下りて来た。先生は昨夜遅く旅から帰って来たのである。もっとも先生は毎朝遅刻する人でけっして定刻に二階から天下った事はない。「いや御早う」。妻君の妹が Good morning と答えた。吾輩も英語で Good morning といった。田中君はムシャムシャやっている。吾輩は Excuse me といって食卓の上にある手紙を開いた。「エッジヒル」夫人からこの十七日午後三時にゆるゆる御話しを伺いたいからおいでくだされまじきやという招待状だ。おやおやと思った。吾輩は日本におっても交際は嫌《きら》いだ。まして西洋へ来て無弁舌なる英語でもって窮窟《きゅうくつ》な交際をやるのはもっとも厭《きら》いだ。加之|倫敦《ロンドン》は広いから交際などを始めるとむやみに時間をつぶす、おまけにきたない「シャツ」などは着て行かれず、「ズボン」の膝《ひざ》が前へせり出していてはまずいし雨のふる時などはなさけない
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