ろをふりかえって見るのも品が悪いとなっている。指で人をさすなんかは失礼の骨頂だ。習慣がこうであるのにさすが倫敦《ロンドン》は世界の勧工場《かんこうば》だからあまり珍らしそうに外国人を玩弄《がんろう》しない。それからたいていの人間は非常に忙がしい。頭の中が金の事で充満しているから日本人などを冷かしている暇がないというような訳で、我々黄色人――黄色人とは甘《うま》くつけたものだ。全く黄色い。日本にいる時はあまり白い方ではないがまず一通りの人間色という色に近いと心得ていたが、この国ではついに人−間−を−去−る−三−舎−色と言わざるを得ないと悟った――その黄色人がポクポク人込の中を歩行《ある》いたり芝居や興行物などを見に行かれるのである。しかし時々は我輩に聞えぬように我輩の国元を気にして評する奴がある。この間或る所の店に立って見ていたら後ろから二人の女が来て“least poor Chinese”と評して行った。least poor とは物匂い形容詞だ。或る公園で男女二人連があれは支那人だいや日本人だと争っていたのを聞た事がある。二三日前さる所へ呼ばれてシルクハットにフロックで出かけたら、向うから来た二人の職工みたような者が a handsome Jap. といった。ありがたいんだか失敬なんだか分らない。せんだって或芝居へ行った。大入で這入《はい》れないからガレリーで立見をしていると傍のものが、あすこにいる二人は葡萄耳《ポルトガル》人だろうと評していた。――こんな事を話すつもりではなかった。話しの筋が分らなくなった。ちょっと一服してから出直そう。
まず散歩でもして帰るとちょっと気分が変って来て晴々する。何こんな生活もただ二三年の間だ。国へ帰れば普通の人間の着る物を着て普通の人間の食う物を食って普通の人の寝る処へ寝られる。少しの我慢だ、我慢しろ我慢しろ、と独《ひと》り言《ごと》をいって寝てしまう。寝てしまう時は善いが、寝られないでまた考え出す事がある。元来我慢しろと云うのは現在に安んぜざる訳だ――だんだん事件がむずかしくなって来る――時々やけの気味になるのは貧苦がつらいのだ。年来自分が考えたまた自分が多少実行し来りたる処世の方針はどこへ行った。前後を切断せよ、妄《みだ》りに過去に執着するなかれ、いたずらに将来に望を属するなかれ、満身の力をこめて現在に働けというのが乃公《だいこう》の主義なのである。しかるに国へ帰れば楽ができるからそれを楽しみに辛防《しんぼう》しようと云うのははかない考だ。国へ帰れば楽をさせると受合ったものは誰もない。自分がきめているばかりだ。自分がきめてもいいから楽ができなかった時にすぐ機鋒《きほう》を転じて過去の妄想《もうそう》を忘却し得ればいいが、今のように未来に御願い申しているようではとうていその未来が満足せられずに過去と変じた時にこの過去をさらりと忘れる事はできまい。のみならず報酬を目的に働らくのは野暮《やぼ》の至りだ。死ねば天堂へ行かれる、未来は雨蛙《あまがえる》といっしょに蓮の葉に往生ができるから、この世で善行をしようという下卑た考と一般の論法で、それよりもなお一層|陋劣《ろうれつ》な考だ。国を立つ前五六年の間にはこんな下等な考は起さなかった。ただ現在に活動しただ現在に義務をつくし現在に悲喜憂苦を感ずるのみで、取越苦労や世迷言や愚痴《ぐち》は口の先ばかりでない腹の中にもたくさんなかった。それで少々得意になったので外国へ行っても金が少なくっても一箪《いったん》の食|一瓢《いっぴょう》の飲然と呑気《のんき》に洒落《しゃらく》にまた沈着に暮されると自負しつつあったのだ。自惚《うぬぼれ》自惚《うぬぼれ》! こんな事では道を去る事三千里。まず明日からは心を入れ換えて勉強専門の事。こう決心して寝てしまう。
かかるありさまでこの薄暗い汚苦しい有名なカンバーウェルと云う貧乏町の隣町に昨年の末から今日までおったのである。おったのみならずこの先も留学期限のきれるまではここにおったかも知れぬのである。しかるにここに或る出来事が起っていくらおりたくっても退去せねばならぬ事となった、というと何か小説的だが、その訳を聞くとすこぶる平凡さ。世の中の出来事の大半は皆平凡な物だから仕方がない。この家はもとからの下宿ではない。去年までは女学校であったので、ここの神《かみ》さんと妹が経験もなく財産もなく将来の目的もしかと立たないのに自営の道を講ずるためにこの上品のような下等のような妙な商買《しょうばい》を始めたのである。彼らは固《もと》より不正な人間ではない。正道を踏んで働けるだけ働いたのだ。しかし耶蘇教《ヤソきょう》の神様も存外|半間《はんま》なもので、こういう時にちょっと人を助けてやる事を知らない。そこでもって家賃が滞《とどこお》る――倫
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