た。
僕の家の裏には大きな棗《なつめ》の木が五六本もあった。『坊っちゃん』に似ているって。あるいはそうかもしれんよ。『坊っちゃん』にお清という親切な老婢《ろうひ》が出る。僕の家にも事実はあんな老婢がいて、僕を非常にかわいがってくれた。『坊っちゃん』の中に、お清からもらった財布《さいふ》を便所へ落とすと、お清がわざわざそれを拾ってもってきてくれる条《くだり》があった。僕は下女に金をもらった覚えはないが、財布の一条《ひとくだり》は実地の話だった。僕の幼友《おさなとも》だちで今、名を知られている人は、山口弘一という人だけだ。この人はたしか学習院の先生かなんかしていられるということだ。くわしくは知らぬ。
そのうちに僕は中学へはいったが、途中でよしてしまって、予備門へはいる準備のため駿河台にそのころあった成立学舎へはいった。そのころの友人にはだいぶえらくなったやつがある。それから予備門へはいった。山田|美妙《びみょう》斎とは同級だったが、格別心やすうもしなかった。正岡とはその時分から友人になった。いっしょに俳句もやった。正岡は僕よりももっと変人で、いつも気に入らぬやつとは一語も話さない。孤峭《こしょう》なおもしろい男だった。どうした拍子か僕が正岡の気にいったとみえて、打ちとけて交わるようになった。上級では川上|眉山《びざん》、石橋|思案《しあん》、尾崎|紅葉《こうよう》などがいた。紅葉はあまり学校のほうはできのよくない男で、交際も自分とはしなかった。それからしばらくすると紅葉の小説が名高くなりだした。僕はそのころは小説を書こうなんどとは夢にも思っていなかったが、なあにおれだってあれくらいのものはすぐ書けるよという調子だった。
ちょうど大学の三年の時だったか、今の早稲田《わせだ》大学、昔の東京専門学校へ英語の教師に行って、ミルトンのアレオパジチカというむずかしい本を教えさされて、大変困ったことがあった。あの早稲田の学生であって、子規や僕らの俳友の藤野|古白《こはく》は姿見橋――太田|道灌《どうかん》の山吹《やまぶき》の里の近所の――あたりの素人《しろうと》屋にいた。僕の馬場下の家とは近いものだから、おりおりやってきて熱烈な議論をやった。あの男は君も知っているだろう。精神錯乱で自殺してしまったよ。『新俳句』に僕があの男を追懐して、
[#ここから2字下げ]
思ひ出すは古白と申す春の人
[#ここで字下げ終わり]
という句を作ったこともあったっけ。――その後早稲田の雇われ教師もやめてしまった。むろん僕が大学学生中の話だぜ。その間僕は下宿をしたり、故家《うち》にいたり、あちらこちらに宿をかえていた。僕が大学を出たのは明治二十六年だ。元来大学の文科出の連中にも時期によってだいぶ変わっている。高山が出た時代からぐっと風潮が変わってきた。上田敏君もこの期に属している。この期にはなかなかやり手がたくさんいる。僕らはそのまえのいわゆる沈滞時代に属するのだ。
学校を出てから、伊予《いよ》の松山の中学の教師にしばらく行った。あの『坊っちゃん』にあるぞなもし[#「ぞなもし」に傍点]の訛《なまり》を使う中学の生徒は、ここの連中だ。僕は『坊っちゃん』みたようなことはやりはしなかったよ。しかしあの中にかいた温泉なんかはあったし、赤手拭《あかてぬぐい》をさげてあるいたことも事実だ。もう一つ困るのは、松山中学にあの小説の中の山嵐《やまあらし》という綽名《あだな》の教師と、寸分《すんぶん》も違《たが》わぬのがいるというので、漱石はあの男のことをかいたんだといわれてるのだ。決してそんなつもりじやないのだから閉口《へいこう》した。
松山から熊本の高等学校の教師に転じて、そこでしばらくいて、後に文部省から英国へ留学を命ぜられて、行って帰って来て、今は大学と一高と明治大学との講師をやっている。なかなか忙しいんだよ。
落語《はなし》か。落語はすきで、よく牛込の肴町《さかなまち》の和良店《わらだな》へ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといえば子供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席《よせ》はたいてい聞きに回った。なにぶん兄らがそろって遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになってしまったのだ。落語家《はなしか》で思い出したが、僕の故家《いえ》からもう少し穴八幡のほうへ行くと、右側に松本順という人の邸《やしき》があった。あの人は僕の子供の時分には時の軍医総監ではぶりがきいてなかなかいばったものだった。円遊《えんゆう》やその他の落語家がたくさん出入りしておった。
――ざっと僕の昔を話したらこんなものだ。この僕の昔の中には僕の今もだいぶはいっているようだね。まあよいようにやっておいてくれたまえ。
底本:「吾輩は猫である(他一編)」旺文社文庫、旺文社
1
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング