す春の人
[#ここで字下げ終わり]
という句を作ったこともあったっけ。――その後早稲田の雇われ教師もやめてしまった。むろん僕が大学学生中の話だぜ。その間僕は下宿をしたり、故家《うち》にいたり、あちらこちらに宿をかえていた。僕が大学を出たのは明治二十六年だ。元来大学の文科出の連中にも時期によってだいぶ変わっている。高山が出た時代からぐっと風潮が変わってきた。上田敏君もこの期に属している。この期にはなかなかやり手がたくさんいる。僕らはそのまえのいわゆる沈滞時代に属するのだ。
 学校を出てから、伊予《いよ》の松山の中学の教師にしばらく行った。あの『坊っちゃん』にあるぞなもし[#「ぞなもし」に傍点]の訛《なまり》を使う中学の生徒は、ここの連中だ。僕は『坊っちゃん』みたようなことはやりはしなかったよ。しかしあの中にかいた温泉なんかはあったし、赤手拭《あかてぬぐい》をさげてあるいたことも事実だ。もう一つ困るのは、松山中学にあの小説の中の山嵐《やまあらし》という綽名《あだな》の教師と、寸分《すんぶん》も違《たが》わぬのがいるというので、漱石はあの男のことをかいたんだといわれてるのだ。決してそんなつもりじやないのだから閉口《へいこう》した。
 松山から熊本の高等学校の教師に転じて、そこでしばらくいて、後に文部省から英国へ留学を命ぜられて、行って帰って来て、今は大学と一高と明治大学との講師をやっている。なかなか忙しいんだよ。
 落語《はなし》か。落語はすきで、よく牛込の肴町《さかなまち》の和良店《わらだな》へ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといえば子供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席《よせ》はたいてい聞きに回った。なにぶん兄らがそろって遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになってしまったのだ。落語家《はなしか》で思い出したが、僕の故家《いえ》からもう少し穴八幡のほうへ行くと、右側に松本順という人の邸《やしき》があった。あの人は僕の子供の時分には時の軍医総監ではぶりがきいてなかなかいばったものだった。円遊《えんゆう》やその他の落語家がたくさん出入りしておった。
 ――ざっと僕の昔を話したらこんなものだ。この僕の昔の中には僕の今もだいぶはいっているようだね。まあよいようにやっておいてくれたまえ。



底本:「吾輩は猫である(他一編)」旺文社文庫、旺文社
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