赤シャツさんが月給をあげてやろとお言いたら、難有《ありがと》うと受けておおきなさいや」
「年寄《としより》の癖に余計な世話を焼かなくってもいい。おれの月給は上がろうと下がろうとおれの月給だ」
 婆さんはだまって引き込んだ。爺《じい》さんは呑気《のんき》な声を出して謡《うたい》をうたってる。謡というものは読んでわかる所を、やにむずかしい節をつけて、わざと分らなくする術だろう。あんな者を毎晩|飽《あ》きずに唸《うな》る爺さんの気が知れない。おれは謡どころの騒《さわ》ぎじゃない。月給を上げてやろうと云うから、別段欲しくもなかったが、入らない金を余しておくのももったいないと思って、よろしいと承知したのだが、転任したくないものを無理に転任させてその男の月給の上前を跳《は》ねるなんて不人情な事が出来るものか。当人がもとの通りでいいと云うのに延岡|下《くんだ》りまで落ちさせるとは一体どう云う了見《りょうけん》だろう。太宰権帥《だざいごんのそつ》でさえ博多《はかた》近辺で落ちついたものだ。河合又五郎《かあいまたごろう》だって相良《さがら》でとまってるじゃないか。とにかく赤シャツの所へ行って断わって来なくっちあ気が済まない。
 小倉《こくら》の袴《はかま》をつけてまた出掛けた。大きな玄関へ突《つ》っ立って頼むと云うと、また例の弟が取次に出て来た。おれの顔を見てまた来たかという眼付《めつき》をした。用があれば二度だって三度だって来る。よる夜なかだって叩《たた》き起《おこ》さないとは限らない。教頭の所へご機嫌伺《きげんうかが》いにくるようなおれと見損《みそくな》ってるか。これでも月給が入らないから返しに来《きた》んだ。すると弟が今来客中だと云うから、玄関でいいからちょっとお目にかかりたいと云ったら奥《おく》へ引き込んだ。足元を見ると、畳付《たたみつ》きの薄っぺらな、のめりの駒下駄《こまげた》がある。奥でもう万歳《ばんざい》ですよと云う声が聞《きこ》える。お客とは野だだなと気がついた。野だでなくては、あんな黄色い声を出して、こんな芸人じみた下駄を穿《は》くものはない。
 しばらくすると、赤シャツがランプを持って玄関まで出て来て、まあ上がりたまえ、外の人じゃない吉川君だ、と云うから、いえここでたくさんです。ちょっと話せばいいんです、と云って、赤シャツの顔を見ると金時のようだ。野だ公と一杯《いっぱい》飲んでると見える。
「さっき僕の月給を上げてやるというお話でしたが、少し考えが変ったから断わりに来たんです」
 赤シャツはランプを前へ出して、奥の方からおれの顔を眺《なが》めたが、とっさの場合返事をしかねて茫然《ぼうぜん》としている。増給を断わる奴が世の中にたった一人飛び出して来たのを不審《ふしん》に思ったのか、断わるにしても、今帰ったばかりで、すぐ出直してこなくってもよさそうなものだと、呆《あき》れ返ったのか、または双方合併《そうほうがっぺい》したのか、妙な口をして突っ立ったままである。
「あの時承知したのは、古賀君が自分の希望で転任するという話でしたからで……」
「古賀君は全く自分の希望で半ば転任するんです」
「そうじゃないんです、ここに居たいんです。元の月給でもいいから、郷里に居たいのです」
「君は古賀君から、そう聞いたのですか」
「そりゃ当人から、聞いたんじゃありません」
「じゃ誰からお聞きです」
「僕の下宿の婆さんが、古賀さんのおっ母《か》さんから聞いたのを今日僕に話したのです」
「じゃ、下宿の婆さんがそう云ったのですね」
「まあそうです」
「それは失礼ながら少し違うでしょう。あなたのおっしゃる通りだと、下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云うように聞えるが、そういう意味に解釈して差支《さしつか》えないでしょうか」
 おれはちょっと困った。文学士なんてものはやっぱりえらいものだ。妙な所へこだわって、ねちねち押《お》し寄せてくる。おれはよく親父《おやじ》から貴様はそそっかしくて駄目《だめ》だ駄目だと云われたが、なるほど少々そそっかしいようだ。婆さんの話を聞いてはっと思って飛び出して来たが、実はうらなり君にもうらなりのおっ母さんにも逢って詳《くわ》しい事情は聞いてみなかったのだ。だからこう文学士流に斬《き》り付けられると、ちょっと受け留めにくい。
 正面からは受け留めにくいが、おれはもう赤シャツに対して不信任を心の中《うち》で申し渡してしまった。下宿の婆さんもけちん坊《ぼう》の欲張り屋に相違ないが、嘘は吐《つ》かない女だ、赤シャツのように裏表はない。おれは仕方がないから、こう答えた。
「あなたの云う事は本当かも知れないですが――とにかく増給はご免蒙《めんこうむ》ります」
「それはますます可笑《おか》しい。今君がわざわざお出《いで》になったのは増俸を受けるには忍《しの》びない、理由を見出したからのように聞えたが、その理由が僕の説明で取り去られたにもかかわらず増俸を否まれるのは少し解しかねるようですね」
「解しかねるかも知れませんがね。とにかく断わりますよ」
「そんなに否《いや》なら強いてとまでは云いませんが、そう二三時間のうちに、特別の理由もないのに豹変《ひょうへん》しちゃ、将来君の信用にかかわる」
「かかわっても構わないです」
「そんな事はないはずです、人間に信用ほど大切なものはありませんよ。よしんば今一歩|譲《ゆず》って、下宿の主人が……」
「主人じゃない、婆さんです」
「どちらでもよろしい。下宿の婆さんが君に話した事を事実としたところで、君の増給は古賀君の所得を削《けず》って得たものではないでしょう。古賀君は延岡へ行かれる。その代りがくる。その代りが古賀君よりも多少低給で来てくれる。その剰余《じょうよ》を君に廻《ま》わすと云うのだから、君は誰にも気の毒がる必要はないはずです。古賀君は延岡でただ今よりも栄進される。新任者は最初からの約束《やくそく》で安くくる。それで君が上がられれば、これほど都合《つごう》のいい事はないと思うですがね。いやなら否《いや》でもいいが、もう一返うちでよく考えてみませんか」
 おれの頭はあまりえらくないのだから、いつもなら、相手がこういう巧妙《こうみょう》な弁舌を揮《ふる》えば、おやそうかな、それじゃ、おれが間違ってたと恐《おそ》れ入って引きさがるのだけれども、今夜はそうは行かない。ここへ来た最初から赤シャツは何だか虫が好かなかった。途中《とちゅう》で親切な女みたような男だと思い返した事はあるが、それが親切でも何でもなさそうなので、反動の結果今じゃよっぽど厭《いや》になっている。だから先がどれほどうまく論理的に弁論を逞《たくまし》くしようとも、堂々たる教頭流におれを遣り込めようとも、そんな事は構わない。議論のいい人が善人とはきまらない。遣り込められる方が悪人とは限らない。表向きは赤シャツの方が重々もっともだが、表向きがいくら立派だって、腹の中まで惚《ほ》れさせる訳には行かない。金や威力《いりょく》や理屈《りくつ》で人間の心が買える者なら、高利貸でも巡査《じゅんさ》でも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。中学の教頭ぐらいな論法でおれの心がどう動くものか。人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものじゃない。
「あなたの云う事はもっともですが、僕は増給がいやになったんですから、まあ断わります。考えたって同じ事です。さようなら」と云いすてて門を出た。頭の上には天の川が一筋かかっている。

     九

 うらなり君の送別会のあるという日の朝、学校へ出たら、山嵐《やまあらし》が突然《とつぜん》、君先だってはいか銀が来て、君が乱暴して困るから、どうか出るように話してくれと頼《たの》んだから、真面目《まじめ》に受けて、君に出てやれと話したのだが、あとから聞いてみると、あいつは悪《わ》るい奴《やつ》で、よく偽筆《ぎひつ》へ贋落款《にせらっかん》などを押《お》して売りつけるそうだから、全く君の事も出鱈目《でたらめ》に違《ちが》いない。君に懸物《かけもの》や骨董《こっとう》を売りつけて、商売にしようと思ってたところが、君が取り合わないで儲《もう》けがないものだから、あんな作りごとをこしらえて胡魔化《ごまか》したのだ。僕はあの人物を知らなかったので君に大変失敬した勘弁《かんべん》したまえと長々しい謝罪をした。
 おれは何とも云わずに、山嵐の机の上にあった、一銭五|厘《りん》をとって、おれの蝦蟇口《がまぐち》のなかへ入れた。山嵐は君それを引き込《こ》めるのかと不審《ふしん》そうに聞くから、うんおれは君に奢《おご》られるのが、いやだったから、是非返すつもりでいたが、その後だんだん考えてみると、やっぱり奢ってもらう方がいいようだから、引き込ますんだと説明した。山嵐は大きな声をしてアハハハと笑いながら、そんなら、なぜ早く取らなかったのだと聞いた。実は取ろう取ろうと思ってたが、何だか妙《みょう》だからそのままにしておいた。近来は学校へ来て一銭五厘を見るのが苦になるくらいいやだったと云ったら、君はよっぽど負け惜《お》しみの強い男だと云うから、君はよっぽど剛情張《ごうじょうっぱ》りだと答えてやった。それから二人の間にこんな問答が起《おこ》った。
「君は一体どこの産だ」
「おれは江戸《えど》っ子だ」
「うん、江戸っ子か、道理で負け惜しみが強いと思った」
「きみはどこだ」
「僕は会津《あいづ》だ」
「会津っぽか、強情な訳だ。今日の送別会へ行くのかい」
「行くとも、君は?」
「おれは無論行くんだ。古賀さんが立つ時は、浜《はま》まで見送りに行こうと思ってるくらいだ」
「送別会は面白いぜ、出て見たまえ。今日は大いに飲むつもりだ」
「勝手に飲むがいい。おれは肴《さかな》を食ったら、すぐ帰る。酒なんか飲む奴は馬鹿《ばか》だ」
「君はすぐ喧嘩《けんか》を吹《ふ》き懸《か》ける男だ。なるほど江戸っ子の軽跳《けいちょう》な風を、よく、あらわしてる」
「何でもいい、送別会へ行く前にちょっとおれのうちへお寄り、話《はな》しがあるから」

 山嵐は約束《やくそく》通りおれの下宿へ寄った。おれはこの間から、うらなり君の顔を見る度に気の毒でたまらなかったが、いよいよ送別の今日となったら、何だか憐《あわ》れっぽくって、出来る事なら、おれが代りに行ってやりたい様な気がしだした。それで送別会の席上で、大いに演説でもしてその行を盛《さかん》にしてやりたいと思うのだが、おれのべらんめえ調子じゃ、到底《とうてい》物にならないから、大きな声を出す山嵐を雇《やと》って、一番赤シャツの荒肝《あらぎも》を挫《ひし》いでやろうと考え付いたから、わざわざ山嵐を呼んだのである。
 おれはまず冒頭《ぼうとう》としてマドンナ事件から説き出したが、山嵐は無論マドンナ事件はおれより詳《くわ》しく知っている。おれが野芹川《のぜりがわ》の土手の話をして、あれは馬鹿野郎《ばかやろう》だと云ったら、山嵐は君はだれを捕《つら》まえても馬鹿|呼《よば》わりをする。今日学校で自分の事を馬鹿と云ったじゃないか。自分が馬鹿なら、赤シャツは馬鹿じゃない。自分は赤シャツの同類じゃないと主張した。それじゃ赤シャツは腑抜《ふぬ》けの呆助《ほうすけ》だと云ったら、そうかもしれないと山嵐は大いに賛成した。山嵐は強い事は強いが、こんな言葉になると、おれより遥《はる》かに字を知っていない。会津っぽなんてものはみんな、こんな、ものなんだろう。
 それから増給事件と将来重く登用すると赤シャツが云った話をしたら山嵐はふふんと鼻から声を出して、それじゃ僕を免職《めんしょく》する考えだなと云った。免職するつもりだって、君は免職になる気かと聞いたら、誰《だれ》がなるものか、自分が免職になるなら、赤シャツもいっしょに免職させてやると大いに威張《いば》った。どうしていっしょに免職させる気かと押し返して尋《たず》ねたら、そこはまだ考えていないと答えた。山嵐は強そうだが、智慧《ちえ》はあまりなさそうだ。おれが増給を断《こと》わ
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