ないんだ。清は今に返すだろうなどと、かりそめにもおれの懐中《かいちゅう》をあてにしてはいない。おれも今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちを付けると同じ事になる。返さないのは清を踏《ふ》みつけるのじゃない、清をおれの片破《かたわ》れと思うからだ。清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だろうが、甘茶《あまちゃ》だろうが、他人から恵《めぐみ》を受けて、だまっているのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。割前を出せばそれだけの事で済むところを、心のうちで難有《ありがた》いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。無位無冠でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは百万両より尊《たっ》といお礼と思わなければならない。
おれはこれでも山嵐に一銭五厘|奮発《ふんぱつ》させて、百万両より尊とい返礼をした気でいる。山嵐は難有《ありがた》いと思ってしかるべきだ。それに裏へ廻って卑劣《ひれつ》な振舞《ふるまい》をするとは怪《け》しからん野郎《やろう》だ。あした行
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