になったのは増俸を受けるには忍《しの》びない、理由を見出したからのように聞えたが、その理由が僕の説明で取り去られたにもかかわらず増俸を否まれるのは少し解しかねるようですね」
「解しかねるかも知れませんがね。とにかく断わりますよ」
「そんなに否《いや》なら強いてとまでは云いませんが、そう二三時間のうちに、特別の理由もないのに豹変《ひょうへん》しちゃ、将来君の信用にかかわる」
「かかわっても構わないです」
「そんな事はないはずです、人間に信用ほど大切なものはありませんよ。よしんば今一歩|譲《ゆず》って、下宿の主人が……」
「主人じゃない、婆さんです」
「どちらでもよろしい。下宿の婆さんが君に話した事を事実としたところで、君の増給は古賀君の所得を削《けず》って得たものではないでしょう。古賀君は延岡へ行かれる。その代りがくる。その代りが古賀君よりも多少低給で来てくれる。その剰余《じょうよ》を君に廻《ま》わすと云うのだから、君は誰にも気の毒がる必要はないはずです。古賀君は延岡でただ今よりも栄進される。新任者は最初からの約束《やくそく》で安くくる。それで君が上がられれば、これほど都合《つごう》のいい事はないと思うですがね。いやなら否《いや》でもいいが、もう一返うちでよく考えてみませんか」
おれの頭はあまりえらくないのだから、いつもなら、相手がこういう巧妙《こうみょう》な弁舌を揮《ふる》えば、おやそうかな、それじゃ、おれが間違ってたと恐《おそ》れ入って引きさがるのだけれども、今夜はそうは行かない。ここへ来た最初から赤シャツは何だか虫が好かなかった。途中《とちゅう》で親切な女みたような男だと思い返した事はあるが、それが親切でも何でもなさそうなので、反動の結果今じゃよっぽど厭《いや》になっている。だから先がどれほどうまく論理的に弁論を逞《たくまし》くしようとも、堂々たる教頭流におれを遣り込めようとも、そんな事は構わない。議論のいい人が善人とはきまらない。遣り込められる方が悪人とは限らない。表向きは赤シャツの方が重々もっともだが、表向きがいくら立派だって、腹の中まで惚《ほ》れさせる訳には行かない。金や威力《いりょく》や理屈《りくつ》で人間の心が買える者なら、高利貸でも巡査《じゅんさ》でも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。中学の教頭ぐらいな論法でおれの心がどう動くものか。人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものじゃない。
「あなたの云う事はもっともですが、僕は増給がいやになったんですから、まあ断わります。考えたって同じ事です。さようなら」と云いすてて門を出た。頭の上には天の川が一筋かかっている。
九
うらなり君の送別会のあるという日の朝、学校へ出たら、山嵐《やまあらし》が突然《とつぜん》、君先だってはいか銀が来て、君が乱暴して困るから、どうか出るように話してくれと頼《たの》んだから、真面目《まじめ》に受けて、君に出てやれと話したのだが、あとから聞いてみると、あいつは悪《わ》るい奴《やつ》で、よく偽筆《ぎひつ》へ贋落款《にせらっかん》などを押《お》して売りつけるそうだから、全く君の事も出鱈目《でたらめ》に違《ちが》いない。君に懸物《かけもの》や骨董《こっとう》を売りつけて、商売にしようと思ってたところが、君が取り合わないで儲《もう》けがないものだから、あんな作りごとをこしらえて胡魔化《ごまか》したのだ。僕はあの人物を知らなかったので君に大変失敬した勘弁《かんべん》したまえと長々しい謝罪をした。
おれは何とも云わずに、山嵐の机の上にあった、一銭五|厘《りん》をとって、おれの蝦蟇口《がまぐち》のなかへ入れた。山嵐は君それを引き込《こ》めるのかと不審《ふしん》そうに聞くから、うんおれは君に奢《おご》られるのが、いやだったから、是非返すつもりでいたが、その後だんだん考えてみると、やっぱり奢ってもらう方がいいようだから、引き込ますんだと説明した。山嵐は大きな声をしてアハハハと笑いながら、そんなら、なぜ早く取らなかったのだと聞いた。実は取ろう取ろうと思ってたが、何だか妙《みょう》だからそのままにしておいた。近来は学校へ来て一銭五厘を見るのが苦になるくらいいやだったと云ったら、君はよっぽど負け惜《お》しみの強い男だと云うから、君はよっぽど剛情張《ごうじょうっぱ》りだと答えてやった。それから二人の間にこんな問答が起《おこ》った。
「君は一体どこの産だ」
「おれは江戸《えど》っ子だ」
「うん、江戸っ子か、道理で負け惜しみが強いと思った」
「きみはどこだ」
「僕は会津《あいづ》だ」
「会津っぽか、強情な訳だ。今日の送別会へ行くのかい」
「行くとも、君は?」
「おれは無論行くんだ。古賀さんが立つ時は、浜《はま》まで見送りに行こうと思ってるく
前へ
次へ
全53ページ中37ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング