っとお目にかかりたいからと、主人を玄関《げんかん》まで呼び出して実はこれこれだが君どこか心当りはありませんかと尋ねてみた。うらなり先生それはさぞお困りでございましょう、としばらく考えていたが、この裏町に萩野《はぎの》と云って老人夫婦ぎりで暮《く》らしているものがある、いつぞや座敷《ざしき》を明けておいても無駄《むだ》だから、たしかな人があるなら貸してもいいから周旋《しゅうせん》してくれと頼《たの》んだ事がある。今でも貸すかどうか分らんが、まあいっしょに行って聞いてみましょうと、親切に連れて行ってくれた。
その夜から萩野の家の下宿人となった。驚《おどろ》いたのは、おれがいか銀の座敷を引き払うと、翌日《あくるひ》から入れ違《ちが》いに野だが平気な顔をして、おれの居た部屋を占領《せんりょう》した事だ。さすがのおれもこれにはあきれた。世の中はいかさま師ばかりで、お互《たがい》に乗せっこをしているのかも知れない。いやになった。
世間がこんなものなら、おれも負けない気で、世間並《せけんなみ》にしなくちゃ、遣《や》りきれない訳になる。巾着切《きんちゃくきり》の上前をはねなければ三度のご膳《ぜん》が戴《いただ》けないと、事が極《き》まればこうして、生きてるのも考え物だ。と云ってぴんぴんした達者なからだで、首を縊《くく》っちゃ先祖へ済まない上に、外聞が悪い。考えると物理学校などへはいって、数学なんて役にも立たない芸を覚えるよりも、六百円を資本《もとで》にして牛乳屋でも始めればよかった。そうすれば清もおれの傍《そば》を離《はな》れずに済むし、おれも遠くから婆さんの事を心配しずに暮《くら》される。いっしょに居るうちは、そうでもなかったが、こうして田舎《いなか》へ来てみると清はやっぱり善人だ。あんな気立《きだて》のいい女は日本中さがして歩いたってめったにはない。婆さん、おれの立つときに、少々|風邪《かぜ》を引いていたが今頃《いまごろ》はどうしてるか知らん。先だっての手紙を見たらさぞ喜んだろう。それにしても、もう返事がきそうなものだが――おれはこんな事ばかり考えて二三日暮していた。
気になるから、宿のお婆さんに、東京から手紙は来ませんかと時々|尋《たず》ねてみるが、聞くたんびに何にも参りませんと気の毒そうな顔をする。ここの夫婦はいか銀とは違って、もとが士族だけに双方《そうほう》共上品だ。爺《じい》さんが夜《よ》るになると、変な声を出して謡《うたい》をうたうには閉口するが、いか銀のようにお茶を入れましょうと無暗《むやみ》に出て来ないから大きに楽だ。お婆さんは時々部屋へ来ていろいろな話をする。どうして奥さんをお連れなさって、いっしょにお出《い》でなんだのぞなもしなどと質問をする。奥さんがあるように見えますかね。可哀想《かわいそう》にこれでもまだ二十四ですぜと云ったらそれでも、あなた二十四で奥さんがおありなさるのは当り前ぞなもしと冒頭《ぼうとう》を置いて、どこの誰《だれ》さんは二十でお嫁《よめ》をお貰《もら》いたの、どこの何とかさんは二十二で子供を二人《ふたり》お持ちたのと、何でも例を半ダースばかり挙げて反駁《はんばく》を試みたには恐《おそ》れ入った。それじゃ僕《ぼく》も二十四でお嫁をお貰いるけれ、世話をしておくれんかなと田舎言葉を真似《まね》て頼んでみたら、お婆さん正直に本当かなもしと聞いた。
「本当の本当《ほんま》のって僕あ、嫁が貰いたくって仕方がないんだ」
「そうじゃろうがな、もし。若いうちは誰もそんなものじゃけれ」この挨拶《あいさつ》には痛み入って返事が出来なかった。
「しかし先生はもう、お嫁がおありなさるに極《きま》っとらい。私はちゃんと、もう、睨《ね》らんどるぞなもし」
「へえ、活眼《かつがん》だね。どうして、睨らんどるんですか」
「どうしててて。東京から便りはないか、便りはないかてて、毎日便りを待ち焦《こ》がれておいでるじゃないかなもし」
「こいつあ驚《おどろ》いた。大変な活眼だ」
「中《あた》りましたろうがな、もし」
「そうですね。中ったかも知れませんよ」
「しかし今時の女子《おなご》は、昔《むかし》と違《ちご》うて油断が出来んけれ、お気をお付けたがええぞなもし」
「何ですかい、僕の奥さんが東京で間男でもこしらえていますかい」
「いいえ、あなたの奥さんはたしかじゃけれど……」
「それで、やっと安心した。それじゃ何を気を付けるんですい」
「あなたのはたしか――あなたのはたしかじゃが――」
「どこに不たしかなのが居ますかね」
「ここ等《ら》にも大分|居《お》ります。先生、あの遠山のお嬢《じょう》さんをご存知かなもし」
「いいえ、知りませんね」
「まだご存知ないかなもし。ここらであなた一番の別嬪《べっぴん》さんじゃがなもし。あまり別嬪さんじゃ
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