て下さい」
 道也先生は茫然《ぼうぜん》として青年の顔を見守っている。
「是非譲って下さい。――金はあるんです。――ちゃんとここに持っています。――百円ちゃんとあります」
 高柳君は懐《ふところ》から受取ったままの金包を取り出して、二人の間に置いた。
「君、そんな金を僕が君から……」と道也先生は押し返そうとする。
「いいえ、いいんです。好《い》いから取って下さい。――いや間違ったんです。是非この原稿を譲って下さい。――先生私はあなたの、弟子です。――越後の高田で先生をいじめて追い出した弟子の一人です。――だから譲って下さい」
 愕然《がくぜん》たる道也先生を残して、高柳君は暗き夜の中に紛《まぎ》れ去った。彼は自己を代表すべき作物《さくぶつ》を転地先よりもたらし帰る代りに、より偉大なる人格論を懐《ふところ》にして、これをわが友中野君に致《いた》し、中野君とその細君の好意に酬《むく》いんとするのである。



底本:「夏目漱石全集3」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年12月1日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年2月24日公開
2004年2月27日修正
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