加減に挨拶《あいさつ》をして置いたら先生すぐ九州へ立って行った。それから二週間ほどして社へ出ると書記が野添さんの株が大変|上《あが》りました。五十円株が六十五円になりました。合計三万二千五百円になりましたと云うのさ」
「そりゃ豪勢だ、実は僕も少し持とうと思ってたんだが」と四角が云うと
「ありゃ実際意外だった。あんなに、とんとん拍子《びょうし》にあがろうとは思わなかった」と胡麻塩《ごましお》がしきりに胡麻塩頭を掻《か》く。
「もう少し踏み込んで沢山僕の名にして置けばよかった」と禿《はげ》は三万二千五百円以外に残念がっている。
 高柳君は恐る恐る三人の傍《そば》を通り抜けた。若夫婦に逢《あ》って挨拶して早く帰りたいと思って、見廻わすと一番奥の方に二人は黒いフロックと五色の袖《そで》に取り巻かれて、なかなか寄りつけそうもない。食卓はようやく人数が減った。しかし残っている食品はほとんどない。
「近頃は出掛けるかね」と云う声がする。仙台平《せんだいひら》をずるずる地びたへ引きずって白足袋《しろたび》に鼠緒《ねずお》の雪駄《せった》をかすかに出した三十|恰好《がっこう》の男だ。
「昨日|須崎《すさき》の種田家《たねだけ》の別荘へ招待されて鴨猟《かもりょう》をやった」と五分刈《ごぶがり》の浅黒いのが答えた。
「鴨にはまだ早いだろう」
「もういいね。十羽ばかり取ったがね。僕が十羽、大谷《おおたに》が七羽、加瀬《かせ》と山内《やまのうち》が八羽ずつ」
「じゃ君が一番か」
「いいや、斎藤は十五羽だ」
「へえ」と仙台平は感心している。
 同期の卒業生は多いなかに、たった五六人しか見えん。しかもあまり親しくないものばかりである。高柳君は挨拶だけして別段話もしなかったが、今となって見ると何だか恋しい心持ちがする。どこぞにおりはせぬかと見廻したが影も見えぬ。ことによると帰ったかも知れぬ。自分も帰ろう。
 主客《しゅかく》は一である。主《しゅ》を離れて客《かく》なく、客を離れて主はない。吾々が主客の別を立てて物我《ぶつが》の境《きょう》を判然と分劃《ぶんかく》するのは生存上の便宜《べんぎ》である。形を離れて色なく、色を離れて形なき強《し》いて個別するの便宜、着想を離れて技巧なく技巧を離れて着想なきをしばらく両体となすの便宜と同様である。一たびこの差別を立《りっ》したる時|吾人《ごじん》は一の迷路に入る。ただ生存は人生の目的なるが故《ゆえ》に、生存に便宜なるこの迷路は入る事いよいよ深くして出ずる事いよいよかたきを感ず。独《ひと》り生存の欲を一刻たりとも擺脱《はいだつ》したるときにこの迷《まよい》は破る事が出来る。高柳君はこの欲を刹那《せつな》も除去し得ざる男である。したがって主客を方寸に一致せしむる事のできがたき男である。主は主、客は客としてどこまでも膠着《こうちゃく》するが故に、一たび優勢なる客に逢うとき、八方より無形の太刀《たち》を揮《ふる》って、打ちのめさるるがごとき心地がする。高柳君はこの園遊会において孤軍重囲のうちに陥ったのである。
 蹌踉《そうろう》としてアーチを潜《くぐ》った高柳君はまた蹌踉としてアーチを出《いで》ざるを得ぬ。遠くから振り返って見ると青い杉の環《わ》の奥の方に天幕《テント》が小さく映って、幕のなかから、奇麗《きれい》な着物がかたまってあらわれて来た。あのなかに若い夫婦も交ってるのであろう。
 夫婦の方では高柳をさがしている。
「時に高柳はどうしたろう。御前《おまえ》あれから逢《あ》ったかい」
「いいえ。あなたは」
「おれは逢わない」
「もう御帰りになったんでしょうか」
「そうさ、――しかし帰るなら、ちっとは帰る前に傍《そば》へ来て話でもしそうなものだ」
「なぜ皆さんのいらっしゃる所へ出ていらっしゃらないのでしょう」
「損だね、ああ云う人は。あれで一人じゃやっぱり不愉快なんだ。不愉快なら出てくればいいのになおなお引き込んでしまう。気の毒な男だ」
「せっかく愉快にしてあげようと思って、御招きするのにね」
「今日は格別色がわるかったようだ」
「きっと御病気ですよ」
「やっぱり一人坊《ひとりぼ》っちだから、色が悪いのだよ」
 高柳君は往来をあるきながら、ぞっと悪寒《おかん》を催《もよお》した。

        十

 道也《どうや》先生長い顔を長くして煤竹《すすだけ》で囲った丸火桶《まるひおけ》を擁《よう》している。外を木枯《こがらし》が吹いて行く。
「あなた」と次の間《ま》から妻君が出てくる。紬《つむぎ》の羽織の襟《えり》が折れていない。
「何だ」とこっちを向く。机の前におりながら、終日《しゅうじつ》木枯《こがらし》に吹《ふ》き曝《さら》されたかのごとくに見える。
「本は売れたのですか」
「まだ売れないよ」
「もう一ヵ月も立てば百や弐百の金は這入《はい》る都合だとおっしゃったじゃありませんか」
「うん言った。言ったには相違ないが、売れない」
「困るじゃござんせんか」
「困るよ。御前《おまえ》よりおれの方が困る。困るから今考えてるんだ」
「だって、あんなに骨を折って、三百枚も出来てるものを――」
「三百枚どころか四百三十五頁ある」
「それで、どうして売れないんでしょう」
「やっぱり不景気なんだろうよ」
「だろうよじゃ困りますわ。どうか出来ないでしょうか」
「南溟堂《なんめいどう》へ持って行った時には、有名な人の御序文があればと云うから、それから足立《あだち》なら大学教授だから、よかろうと思って、足立にたのんだのさ。本も借金と同じ事で保証人がないと駄目だぜ」
「借金は借りるんだから保証人もいるでしょうが――」と妻君頭のなかへ人指《ひとさし》ゆびを入れてぐいぐい掻《か》く。束髪《そくはつ》が揺れる。道也はその頭を見ている。
「近頃の本は借金同様だ。信用のないものは連帯責任でないと出版が出来ない」
「本当につまらないわね。あんなに夜遅くまでかかって」
「そんな事は本屋の知らん事だ」
「本屋は知らないでしょうさ。しかしあなたは御存じでしょう」
「ハハハハ当人は知ってるよ。御前も知ってるだろう」
「知ってるから云うのでさあね」
「言ってくれても信用がないんだから仕方がない」
「それでどうなさるの」
「だから足立の所へ持って行ったんだよ」
「足立さんが書いてやるとおっしゃって」
「うん、書くような事を云うから置いて来たら、またあとから書けないって断わって来た」
「なぜでしょう」
「なぜだか知らない。厭《いや》なのだろう」
「それであなたはそのままにして御置きになるんですか」
「うん、書かんのを無理に頼む必要はないさ」
「でもそれじゃ、うちの方が困りますわ。この間|御兄《おあにい》さんに判を押して借りて頂いた御金ももう期限が切れるんですから」
「おれもその方を埋《う》めるつもりでいたんだが――売れないから仕方がない」
「馬鹿馬鹿しいのね。何のために骨を折ったんだか、分りゃしない」
 道也先生は火桶《ひおけ》のなかの炭団《たどん》を火箸《ひばし》の先で突《つっ》つきながら「御前から見れば馬鹿馬鹿しいのさ」と云った。妻君はだまってしまう。ひゅうひゅうと木枯《こがらし》が吹く。玄関の障子《しょうじ》の破れが紙鳶《たこ》のうなりのように鳴る。
「あなた、いつまでこうしていらっしゃるの」と細君は術《じゅつ》なげに聞いた。
「いつまでとも考はない。食えればいつまでこうしていたっていいじゃないか」
「二言目《ふたことめ》には食えれば食えればとおっしゃるが、今こそ、どうにかこうにかして行きますけれども、このぶんで押して行けば今に食べられなくなりますよ」
「そんなに心配するのかい」
 細君はむっとした様子である。
「だって、あなたも、あんまり無考《むかんがえ》じゃござんせんか。楽に暮せる教師の口はみんな断《ことわ》っておしまいなすって、そうして何でも筆で食うと頑固《がんこ》を御張りになるんですもの」
「その通りだよ。筆で食うつもりなんだよ。御前もそのつもりにするがいい」
「食べるものが食べられれば私だってそのつもりになりますわ。私も女房ですもの、あなたの御好きでおやりになる事をとやかく云うような差し出口はききゃあしません」
「それじゃ、それでいいじゃないか」
「だって食べられないんですもの」
「たべられるよ」
「随分ね、あなたも。現に教師をしていた方が楽で、今の方がよっぽど苦しいじゃありませんか。あなたはやっぱり教師の方が御上手なんですよ。書く方は性《しょう》に合わないんですよ」
「よくそんな事がわかるな」
 細君は俯向《うつむ》いて、袂《たもと》から鼻紙を出してちいんと鼻をかんだ。
「私ばかりじゃ、ありませんわ。御兄《おあにい》さんだって、そうおっしゃるじゃありませんか」
「御前は兄の云う事をそう信用しているのか」
「信用したっていいじゃありませんか、御兄さんですもの、そうして、あんなに立派にしていらっしゃるんですもの」
「そうか」と云ったなり道也先生は火鉢《ひばち》の灰を丁寧に掻《か》きならす。中から二寸|釘《くぎ》が灰だらけになって出る。道也先生は、曲った真鍮《しんちゅう》の火箸《ひばし》で二寸釘をつまみながら、片手に障子をあけて、ほいと庭先へ抛《ほう》り出した。
 庭には何にもない。芭蕉《ばしょう》がずたずたに切れて、茶色ながら立往生をしている。地面は皮が剥《む》けて、蓆《むしろ》を捲《ま》きかけたように反《そ》っくり返っている。道也先生は庭の面《おもて》を眺《なが》めながら
「だいぶ吹いてるな」と独語《ひとりごと》のように云った。
「もう一遍足立さんに願って御覧になったらどうでしょう」
「厭《いや》なものに頼んだって仕方がないさ」
「あなたは、それだから困るのね。どうせ、あんな、豪《えら》い方《かた》になれば、すぐ、おいそれと書いて下さる事はないでしょうから……」
「あんな豪い方って――足立がかい」
「そりゃ、あなたも豪いでしょうさ――しかし向《むこう》はともかくも大学校の先生ですから頭を下げたって損はないでしょう」
「そうか、それじゃおおせに従って、もう一返《いっぺん》頼んで見ようよ。――時に何時かな。や、大変だ、ちょっと社まで行って、校正をしてこなければならない。袴《はかま》を出してくれ」
 道也先生は例のごとく茶の千筋《せんすじ》の嘉平治《かへいじ》を木枯《こがらし》にぺらつかすべく一着して飄然《ひょうぜん》と出て行った。居間の柱時計がぼんぼんと二時を打つ。
 思う事積んでは崩《くず》す炭火《すみび》かなと云う句があるが、細君は恐らく知るまい。細君は道也先生の丸火桶《まるひおけ》の前へ来て、火桶の中を、丸るく掻きならしている。丸い火桶だから丸く掻きならす。角な火桶なら角に掻きならすだろう。女は与えられたものを正しいものと考える。そのなかで差し当りのないように暮らすのを至善《しぜん》と心得ている。女は六角の火桶を与えられても、八角の火鉢を与えられても、六角にまた八角に灰を掻きならす。それより以上の見識は持たぬ。
 立ってもおらぬ、坐ってもおらぬ、細君の腰は宙に浮いて、膝頭《ひざがしら》は火桶の縁《ふち》につきつけられている。坐《す》わるには所を得ない、立っては考えられない。細君の姿勢は中途半把《ちゅうとはんぱ》で、細君の心も中途半把である。
 考えると嫁に来たのは間違っている。娘のうちの方が、いくら気楽で面白かったか知れぬ。人の女房はこんなものと、誰か教えてくれたら、来ぬ前によすはずであった。親でさえ、あれほどに親切を尽してくれたのだから、二世《にせ》の契《ちぎ》りと掟《おきて》にさえ出ている夫は、二重にも三重にも可愛がってくれるだろう、また可愛がって下さるよと受合われて、住み馴れた家《いえ》を今日限りと出た。今日限りと出た家《うち》へ二度とは帰られない。帰ろうと思ってもおとっさんもお母《っか》さんも亡くなってしまった。可愛がられる目的《あて》ははずれて、可愛がってくれる人はもうこの世にいない。
 細君は赤い炭団《たどん》の、灰の皮を
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