とつくろった景色《けしき》もなく云う。高柳君にはこの挨拶振《あいさつぶ》りが気に入った。両人はしばらくの間黙って控えている。道也は相手の来意がわからぬから、先方の切り出すのを待つのが当然と考える。高柳君は昔しの関係を残りなく打ち開《あ》けて、一刻も早く同類|相憐《あいあわれ》むの間柄になりたい。しかしあまり突然であるから、ちょっと言い出しかねる。のみならず、一昔《ひとむか》し前の事とは申しながら、自分達がいじめて追い出した先生が、そのためにかく零落《れいらく》したのではあるまいかと思うと、何となく気がひけて云い切れない。高柳君はこんなところになるとすこぶる勇気に乏《とぼ》しい。謝罪かたがた尋ねはしたが、いよいよと云う段になると少々怖《こわ》くて罪滅《つみほろぼ》しが出来かねる。心にいろいろな冒頭を作って見たが、どれもこれもきまりがわるい。
「だんだん寒くなりますね」と道也先生は、こっちの了簡《りょうけん》を知らないから、超然たる時候の挨拶をする。
「ええ、だいぶ寒くなったようで……」
 高柳君の脳中の冒頭はこれでまるで打ち壊されてしまった。いっその事自白はこの次にしようという気になる。しかし何だか話して行きたい気がする。
「先生|御忙《おいそ》がしいですか……」
「ええ、なかなか忙がしいんで弱ります。貧乏|閑《ひま》なしで」
 高柳君はやり損《そく》なったと思う。再び出直さねばならん。
「少し御話を承《うけたまわ》りたいと思って上がったんですが……」
「はあ、何か雑誌へでも御載《おの》せになるんですか」
 あてはまたはずれる。おれの態度がどうしても向《むこう》には酌《く》み取れないと見えると青年は心中少しく残念に思った。
「いえ、そうじゃないので――ただ――ただっちゃ失礼ですが。――御邪魔ならまた上がってもよろしゅうございますが……」
「いえ邪魔じゃありません。談話と云うからちょっと聞いて見たのです。――わたしのうちへ話なんか聞きにくるものはありませんよ」
「いいえ」と青年は妙な言葉をもって先生の辞《ことば》を否定した。
「あなたは何の学問をなさるですか」
「文学の方を――今年大学を出たばかりです」
「はあそうですか。ではこれから何かおやりになるんですね」
「やれれば、やりたいのですが、暇《ひま》がなくって……」
「暇はないですね。わたしなども暇がなくって困っています。しかし暇はかえってない方がいいかも知れない。何ですね。暇のあるものはだいぶいるようだが、余り誰も何もやっていないようじゃありませんか」
「それは人に依《よ》りはしませんか」と高柳君はおれが暇さえあればと云うところを暗《あん》にほのめかした。
「人にも依るでしょう。しかし今の金持ちと云うものは……」と道也は句を半分で切って、机の上を見た。机の上には二寸ほどの厚さの原稿がのっている。障子には洗濯した足袋《たび》の影がさす。
「金持ちは駄目です。金がなくって困ってるものが……」
「金がなくって困ってるものは、困りなりにやればいいのです」と道也先生困ってる癖に太平な事を云う。高柳君は少々不満である。
「しかし衣食のために勢力をとられてしまって……」
「それでいいのですよ。勢力をとられてしまったら、ほかに何にもしないで構わないのです」
 青年は唖然《あぜん》として、道也を見た。道也は孔子様のように真面目《まじめ》である。馬鹿にされてるんじゃたまらないと高柳君は思う。高柳君は大抵の事を馬鹿にされたように聞き取る男である。
「先生ならいいかも知れません」とつるつると口を滑《すべ》らして、はっと言い過ぎたと下を向いた。道也は何とも思わない。
「わたしは無論いい。あなただって好いですよ」と相手までも平気に捲《ま》き込もうとする。
「なぜですか」と二三歩逃げて、振り向きながら佇《たたず》む狐のように探《さぐ》りを入れた。
「だって、あなたは文学をやったと云われたじゃありませんか。そうですか」
「ええやりました」と力を入れる。すべて他の点に関しては断乎《だんこ》たる返事をする資格のない高柳君は自己の本領においては何人《なんびと》の前に出てもひるまぬつもりである。
「それならいい訳だ。それならそれでいい訳だ」と道也先生は繰り返して云った。高柳君には何の事か少しも分らない。また、なぜです[#「なぜです」に傍点]と突き込むのも、何だか伏兵《ふくへい》に罹《かか》る気持がして厭《いや》である。ちょっと手のつけようがないので、黙って相手の顔を見た。顔を見ているうちに、先方でどうか解決してくれるだろうと、暗《あん》に催促の意を籠《こ》めて見たのである。
「分りましたか」と道也先生が云う。顔を見たのはやっぱり何の役にも立たなかった。
「どうも」と折れざるを得ない。
「だってそうじゃありませんか。―
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