しむべき事である。
「解脱は便法である。この方便門《ほうべんもん》を通じて出頭《しゅっとう》し来る行為、動作、言説の是非は解脱の関するところではない。したがって吾人は解脱を修得する前に正鵠《せいこく》にあたれる趣味を養成せねばならぬ。下劣なる趣味を拘泥なく一代に塗抹《とまつ》するは学人の恥辱である。彼らが貴重なる十年二十年を挙《あ》げて故紙堆裏《こしたいり》に兀々《こつこつ》たるは、衣食のためではない、名聞《みょうもん》のためではない、ないし爵禄財宝《しゃくろくざいほう》のためではない。微《かす》かなる墨痕《ぼっこん》のうちに、光明の一|炬《きょ》を点じ得て、点じ得たる道火《どうか》を解脱の方便門より担《にな》い出《いだ》して暗黒世界を遍照《へんじょう》せんがためである。
「このゆえに真に自家証得底《じかしょうとくてい》の見解《けんげ》あるもののために、拘泥の煩《はん》を払って、でき得る限り彼らをして第一種の解脱に近づかしむるを道徳と云う。道徳とは有道《ゆうどう》の士をして道を行わしめんがために、吾人がこれに対して与うる自由の異名《いみょう》である。この大道徳を解せざるものを俗人と云う。
「天下の多数は俗人である。わが位に着《ちゃく》するがためにこの大道徳を解し得ぬ。わが富に着するがためにこの大道徳を解し得ぬ。下《くだ》れるものは、わが酒とわが女に着するがためにこの大道徳を解し得ぬ。
「光明は趣味の先駆である。趣味は社会の油である。油なき社会は成立せぬ。汚《けが》れたる油に廻転する社会は堕落《だらく》する。かの紳士、通人、芸妓の徒《と》は、汚れたる油の上を滑《すべ》って墓に入るものである。華族と云い貴顕《きけん》と云い豪商と云うものは門閥《もんばつ》の油、権勢《けんせい》の油、黄白《こうはく》の油をもって一世を逆《さか》しまに廻転せんと欲するものである。
「真正《しんせい》の油は彼らの知るところではない。彼らは生れてより以来この油について何らの工夫《くふう》も費やしておらん。何らの工夫を費やさぬものが、この大道徳を解せぬのは許す。光明の学徒を圧迫せんとするに至っては、俗人の域を超越して罪人の群《むれ》に入る。
「三味線《しゃみせん》を習うにも五六年はかかる。巧拙《こうせつ》を聴き分くるさえ一カ月の修業では出来ぬ。趣味の修養が三味《しゃみ》の稽古《けいこ》より易《やす》いと思うのは間違っている。茶の湯を学ぶ彼らはいらざる儀式に貴重な時間を費やして、一々に師匠の云う通りになる。趣味は茶の湯より六《む》ずかしいものじゃ。茶坊主に頭を下げる謙徳《けんとく》があるならば、趣味の本家《ほんけ》たる学者の考はなおさら傾聴せねばならぬ。
「趣味は人間に大切なものである。楽器を壊《こぼ》つものは社会から音楽を奪う点において罪人である。書物を焼くものは社会から学問を奪う点において罪人である。趣味を崩《くず》すものは社会そのものを覆《くつが》えす点において刑法の罪人よりもはなはだしき罪人である。音楽はなくとも吾人は生きている、学問がなくても吾人はいきている。趣味がなくても生きておられるかも知れぬ。しかし趣味は生活の全体に渉《わた》る社会の根本要素である。これなくして生きんとするは野に入って虎と共に生きんとすると一般である。
「ここに一人《いちにん》がある。この一人が単に自己の思うようにならぬと云う源因のもとに、多勢《たぜい》が朝に晩に、この一人を突つき廻わして、幾年の後《のち》この一人の人格を堕落せしめて、下劣なる趣味に誘い去りたる時、彼らは殺人より重い罪を犯したのである。人を殺せば殺される。殺されたものは社会から消えて行く。後患《こうかん》は遺《のこ》さない。趣味の堕落したものは依然として現存する。現存する以上は堕落した趣味を伝染せねばやまぬ。彼はペストである。ペストを製造したものはもちろん罪人である。
「趣味の世界にペストを製造して罰せられんのは人殺しをして罰せられんのと同様である。位地の高いものはもっともこの罪を犯《おか》しやすい。彼らは彼らの社会的地位からして、他に働きかける便宜《べんぎ》の多い場所に立っている。他に働きかける便宜を有して、働きかける道を弁《わきま》えぬものは危険である。
「彼らは趣味において専門の学徒に及ばぬ。しかも学徒以上他に働きかけるの能力を有している。能力は権利ではない。彼らのあるものはこの区別さえ心得ておらん。彼らの趣味を教育すべくこの世に出現せる文学者を捕えてすらこれを逆《さか》しまに吾意のごとくせんとする。彼らは単に大道徳を忘れたるのみならず、大不道徳を犯して恬然《てんぜん》として社会に横行しつつあるのである。
「彼らの意のごとくなる学徒があれば、自己の天職を自覚せざる学徒である。彼らを教育する事の出来ぬ学徒が
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