なたはそれが癖なんですよ。損じゃあ、ありませんか、好んで人に嫌《きら》われて……」
 道也先生は空然《くうぜん》として壁に動く細君の影を見ている。
「それで才覚が出来たのかい」
「あなたは何でも一足飛《いっそくとび》ね」
「なにが」
「だって、才覚が出来る前にはそれぞれ魂胆《こんたん》もあれば工面《くめん》もあるじゃありませんか」
「そうか、それじゃ最初から聞き直そう。で、御前が兄のうちへ行ったんだね。おれに内所《ないしょ》で」
「内所だって、あなたのためじゃありませんか」
「いいよ、ためでいいよ。それから」
「で御兄《おあにい》さんに、御目に懸《かか》っていろいろ今までの御無沙汰《ごぶさた》の御詫《おわび》やら、何やらして、それから一部始終《いちぶしじゅう》の御話をしたんです」
「それから」
「すると御兄《おあにい》さんが、そりゃ御前には大変気の毒だって大変|私《わたくし》に同情して下さって……」
「御前に同情した。ふうん。――ちょっとその炭取を取れ。炭をつがないと火種《ひだね》が切れる」
「で、そりゃ早く整理しなくっちゃ駄目だ。全体なぜ今まで抛《ほう》って置いたんだっておっしゃるんです」
「旨《うま》い事を云わあ」
「まだ、あなたは御兄《おあにい》さんを疑っていらっしゃるのね。罰があたりますよ」
「それで、金でも貸したのかい」
「ほらまた一足飛《いっそくと》びをなさる」
 道也先生は少々おかしくなったと見えて、にやりと下を向きながら、黒く積んだ炭を吹き出した。
「まあどのくらいあれば、これまでの穴が奇麗《きれい》に埋《うま》るのかと御聞きになるから、――よっぽど言い悪《にく》かったんですけれども――とうとう思い切ってね……」でちょっと留めた。道也はしきりに吹いている。
「ねえ、あなた。とうとう思い切ってね――あなた。聞いていらっしゃらないの」
「聞いてるよ」と赫気《かっき》で赤くなった顔をあげた。
「思い切って百円ばかりと云ったの」
「そうか。兄は驚ろいたろう」
「そうしたらね。ふうんて考えて、百円と云う金は、なかなか容易に都合がつく訳のものじゃない……」
「兄の云いそうな事だ」
「まあ聞いていらっしゃい。まだ、あとが有るんです。――しかし、ほかの事とは違うから、是非なければ困ると云うならおれが保証人になって、人から借りてやってもいいって仰しゃるんです」
「あやしいものだ」
「まあさ、しまいまで御聞きなさい。――それで、ともかくも本人に逢って篤《とく》と了簡《りょうけん》を聞いた上にしようと云うところまでに漕《こ》ぎつけて来たのです」
 細君は大功名をしたように頬骨《ほおぼね》の高い顔を持ち上げて、夫《おっと》を覗《のぞ》き込んだ。細君の眼つきが云う。夫は意気地《いくじ》なしである。終日終夜、机と首っ引をして、兀々《こつこつ》と出精《しゅっせい》しながら、妻《さい》と自分を安らかに養うほどの働きもない。
「そうか」と道也は云ったぎり、この手腕に対して、別段に感謝の意を表しようともせぬ。
「そうかじゃ困りますわ。私がここまで拵《こしら》えたのだから、あとは、あなたが、どうとも為《な》さらなくっちゃあ。あなたの楫《かじ》のとりようでせっかくの私の苦心も何の役にも立たなくなりますわ」
「いいさ、そう心配するな。もう一ヵ月もすれば百や弐百の金は手に這入《はい》る見込があるから」と道也先生は何の苦もなく云って退《の》けた。
 江湖雑誌《こうこざっし》の編輯《へんしゅう》で二十円、英和字典の編纂《へんさん》で十五円、これが道也のきまった収入である。但《ただ》しこのほかに仕事はいくらでもする。新聞にかく、雑誌にかく。かく事においては毎日毎夜筆を休ませた事はないくらいである。しかし金にはならない。たまさか二円、三円の報酬が彼の懐《ふところ》に落つる時、彼はかえって不思議に思うのみである。
 この物質的に何らの功能もない述作的労力の裡《うち》には彼の生命がある。彼の気魄《きはく》が滴々《てきてき》の墨汁《ぼくじゅう》と化して、一字一画に満腔《まんこう》の精神が飛動している。この断篇が読者の眼に映じた時、瞳裏《とうり》に一道の電流を呼び起して、全身の骨肉が刹那《せつな》に震《ふる》えかしと念じて、道也は筆を執《と》る。吾輩は道を載《の》す。道を遮《さえ》ぎるものは神といえども許さずと誓って紙に向う。誠は指頭《しとう》より迸《ほとばし》って、尖《とが》る毛穎《もうえい》の端《たん》に紙を焼く熱気あるがごとき心地にて句を綴《つづ》る。白紙が人格と化して、淋漓《りんり》として飛騰《ひとう》する文章があるとすれば道也の文章はまさにこれである。されども世は華族、紳商、博士、学士の世である。附属物が本体を踏み潰《つぶ》す世である。道也の文章は出るたびに黙
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