、広義な社会観を有している彼は、凡俗以上に同化の功徳《くどく》を認めている。ただ高いものに同化するか低いものに同化するかが問題である。この問題を解釈しないでいたずらに同化するのは世のためにならぬ。自分から云えば一分《いちぶん》が立たぬ。
 ある時旧藩主が学校を参観に来た。旧藩主は殿様で華族様である。所のものから云えば神様である。この神様が道也の教室へ這入《はい》って来た時、道也は別に意にも留めず授業を継続していた。神様の方では無論|挨拶《あいさつ》もしなかった。これから事が六《む》ずかしくなった。教場は神聖である。教師が教壇に立って業を授けるのは侍《さむらい》が物《もの》の具《ぐ》に身を固めて戦場に臨むようなものである。いくら華族でも旧藩主でも、授業を中絶させる権利はないとは道也の主張であった。この主張のために道也はまた飄然《ひょうぜん》として任地を去った。去る時に土地のものは彼を目《もく》して頑愚《がんぐ》だと評し合うたそうである。頑愚と云われたる道也はこの嘲罵《ちょうば》を背に受けながら飄然として去った。
 三《み》たび飄然と中学を去った道也は飄然と東京へ戻ったなり再び動く景色《けしき》がない。東京は日本で一番|世地辛《せちがら》い所である。田舎にいるほどの俸給を受けてさえ楽には暮せない。まして教職を抛《なげう》って両手を袂《たもと》へ入れたままで遣《や》り切《き》るのは、立ちながらみいら[#「みいら」に傍点]となる工夫《くふう》と評するよりほかに賞《ほ》めようのない方法である。
 道也には妻《さい》がある。妻と名がつく以上は養うべき義務は附随してくる。自《みず》からみいら[#「みいら」に傍点]となるのを甘んじても妻を干乾《ひぼし》にする訳《わけ》には行かぬ。干乾にならぬよほど前から妻君はすでに不平である。
 始めて越後《えちご》を去る時には妻君に一部始終《いちぶしじゅう》を話した。その時妻君はごもっともでござんすと云って、甲斐甲斐《かいがい》しく荷物の手拵《てごしらえ》を始めた。九州を去る時にもその顛末《てんまつ》を云って聞かせた。今度はまたですかと云ったぎり何にも口を開かなかった。中国を出る時の妻君の言葉は、あなたのように頑固《がんこ》ではどこへいらしっても落ちつけっこありませんわと云う訓戒的の挨拶《あいさつ》に変化していた。七年の間に三たび漂泊して、三たび漂泊するうちに妻君はしだいと自分の傍を遠退《とおの》くようになった。
 妻君が自分の傍を遠退くのは漂泊のためであろうか、俸禄《ほうろく》を棄《す》てるためであろうか。何度漂泊しても、漂泊するたびに月給が上がったらどうだろう。妻君は依然として「あなたのように……」と不服がましい言葉を洩《も》らしたろうか。博士にでもなって、大学教授に転任してもやはり「あなたのように……」が繰り返されるであろうか。妻君の了簡《りょうけん》は聞いて見なければ分らぬ。
 博士になり、教授になり、空《むな》しき名を空しく世間に謳《うた》わるるがため、その反響が妻君の胸に轟《とどろ》いて、急に夫《おっと》の待遇を変えるならばこの細君は夫の知己《ちき》とは云えぬ。世の中が夫を遇する朝夕《ちょうせき》の模様で、夫の価値を朝夕に変える細君は、夫を評価する上において、世間並《せけんなみ》の一人である。嫁《とつ》がぬ前、名を知らぬ前、の己《おの》れと異なるところがない。従って夫から見ればあかの他人である。夫を知る点において嫁ぐ前と嫁ぐ後《のち》とに変りがなければ、少なくともこの点において細君らしいところがないのである。世界はこの細君らしからぬ細君をもって充満している。道也は自分の妻《さい》をやはりこの同類と心得ているだろうか。至る所に容《い》れられぬ上に、至る所に起居を共にする細君さえ自分を解してくれないのだと悟ったら、定めて心細いだろう。
 世の中はかかる細君をもって充満していると云った。かかる細君をもって充満しておりながら、皆円満にくらしている。順境にある者が細君の心事をここまでに解剖する必要がない。皮膚病に罹《かか》ればこそ皮膚の研究が必要になる。病気も無いのに汚ないものを顕微鏡《けんびきょう》で眺《なが》めるのは、事なきに苦しんで肥柄杓《こえびしゃく》を振り廻すと一般である。ただこの順境が一転して逆落《さかおと》しに運命の淵《ふち》へころがり込む時、いかな夫婦の間にも気まずい事が起る。親子の覊絆《きずな》もぽつりと切れる。美くしいのは血の上を薄く蔽《おお》う皮の事であったと気がつく。道也はどこまで気がついたか知らぬ。
 道也の三たび去ったのは、好んで自から窮地に陥《おちい》るためではない。罪もない妻に苦労を掛けるためではなおさらない。世間が己《おの》れを容れぬから仕方がないのである。世が容れぬなら
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