うかと微笑するだろう。あす立ちますと云ったらあるいは驚ろくだろう。一世一代の作を仕上げてかえるつもりだと云ったらさぞ喜ぶであろう。――空想は空想の子である。もっとも繁殖力に富むものを脳裏《のうり》に植えつけた高柳君は、病の身にある事を忘れて、いつの間にか先生の門口《かどぐち》に立った。
 誰か来客のようであるが、せっかく来たのをとわざと遠慮を抜いて「頼む」と声をかけて見た。「どなた」と奥から云うのは先生自身である。
「私です。高柳……」
「はあ、御這入《おはい》り」と云ったなり、出てくる景色《けしき》もない。
 高柳君は玄関から客間へ通る。推察の通り先客がいた。市楽《いちらく》の羽織に、くすんだ縞《しま》ものを着て、帯の紋博多《もんはかた》だけがいちじるしく眼立つ。額の狭い頬骨の高い、鈍栗眼《どんぐりまなこ》である。高柳君は先生に挨拶《あいさつ》を済ました、あとで鈍栗に黙礼をした。
「どうしました。だいぶ遅く来ましたね。何か用でも……」
「いいえ、ちょっと――実は御暇乞《おいとまごい》に上がりました」
「御暇乞? 田舎《いなか》の中学へでも赴任《ふにん》するんですか」
 間《あい》の襖《ふすま》をあけて、細君が茶を持って出る。高柳君と御辞儀《おじぎ》の交換をして居間へ退《しりぞ》く。
「いえ、少し転地しようかと思いまして」
「それじゃ身体《からだ》でも悪いんですね」
「大した事もなかろうと思いますが、だんだん勧める人もありますから」
「うん。わるけりゃ、行くがいいですとも。いつ? あした? そうですか。それじゃまあ緩《ゆっ》くり話したまえ。――今ちょっと用談を済ましてしまうから」と道也先生は鈍栗の方へ向いた。
「それで、どうも御気の毒だが――今申す通りの事情だから、少し待ってくれませんか」
「それは待って上げたいのです。しかし私の方の都合もありまして」
「だから利子を上げればいいでしょう。利子だけ取って元金は春まで猶予《ゆうよ》してくれませんか」
「利子は今まででも滞《とどこお》りなくちょうだいしておりますから、利子さえ取れれば好《い》い金なら、いつまででも御用立てて置きたいのですが……」
「そうはいかんでしょうか」
「せっかくの御頼《おたのみ》だから、出来れば、そうしたいのですが……」
「いけませんか」
「どうもまことに御気の毒で……」
「どうしても、いかんですか」
「どうあっても百円だけ拵《こしら》えていただかなくっちゃならんので」
「今夜中にですか」
「ええ、まあ、そうですな。昨日《きのう》が期限でしたね」
「期限の切れたのは知ってるです。それを忘れるような僕じゃない。だからいろいろ奔走して見たんだが、どうも出来ないから、わざわざ君の所へ使をあげたのです」
「ええ、御手紙はたしかに拝見しました。何か御著述があるそうで、それを本屋の方へ御売渡しになるまで延期の御申込でした」
「さよう」
「ところがですて、この金の性質がですて――ただ利子を生ませる目的でないものですから――実は年末には是非入用だがと念を押して御兄《おあにい》さんに伺ったくらいなのです。ところが御兄さんが、いやそりゃ大丈夫、ほかのものなら知らないが、弟に限ってけっして、そんな不都合はない。受合う。とおっしゃるものですから、それで私も安心して御用立て申したので――今になって御違約でははなはだ迷惑します」
 道也先生は黙然《もくねん》としている。鈍栗《どんぐり》は煙草《たばこ》をすぱすぱ呑《の》む。
「先生」と高柳君が突然横合から口を出した。
「ええ」と道也先生は、こっちを向く。別段赤面した様子も見えない。赤面するくらいなら用談中と云って面会を謝絶するはずである。
「御話し中はなはだ失礼ですが。ちょっと伺っても、ようございましょうか」
「ええ、いいです。何ですか」
「先生は今御著作をなさったと承《うけたま》わりましたが、失礼ですが、その原稿を見せていただく訳には行きますまいか」
「見るなら御覧、待ってるうち、読むのですか」
 高柳君は黙っている。道也先生は立って、床の間に積みかさねた書籍の間から、厚さ三寸ほどの原稿を取り出して、青年に渡しながら
「見て御覧」という。表紙には人格論と楷書《かいしょ》でかいてある。
「ありがとう」と両手に受けた青年は、しばしこの人格論の三字をしけじけと眺《なが》めていたが、やがて眼を挙《あ》げて鈍栗の方を見た。
「君、この原稿を百円に買って上げませんか」
「エヘヘヘヘ。私は本屋じゃありません」
「じゃ買わないですね」
「エヘヘヘ御冗談《ごじょうだん》を」
「先生」
「何ですか」
「この原稿を百円で私に譲って下さい」
「その原稿?……」
「安過ぎるでしょう。何万円だって安過ぎるのは知っています。しかし私は先生の弟子だから百円に負けて譲っ
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