道《たいどう》を行き尽して、途上に斃るる刹那《せつな》に、わが過去を一瞥《いちべつ》のうちに縮め得て始めて合点《がてん》が行《ゆ》くのである。諸君は諸君の事業そのものに由《よ》って伝えられねばならぬ。単に諸君の名に由って伝えられんとするは軽薄である」
 高柳君は何となくきまりがわるかった。道也の輝やく眼が自分の方に注《そそ》いでいるように思《おもわ》れる。
「理想は人によって違う。吾々は学問をする。学問をするものの理想は何であろう」
 聴衆は黙然《もくねん》として応ずるものがない。
「学問をするものの理想は何であろうとも――金でない事だけはたしかである」
 五六ヵ所に笑声が起る。道也先生の裕福《ゆうふく》ならぬ事はその服装を見たものの心から取り除《の》けられぬ事実である。道也先生は羽織のゆきを左右の手に引っ張りながら、まず徐《おもむ》ろにわが右の袖《そで》を見た。次に眼を転じてまた徐ろにわが左の袖を見た。黒木綿《くろもめん》の織目のなかに砂がいっぱいたまっている。
「随分きたない」と落ちつき払って云った。
 笑声《しょうせい》が満場に起る。これはひやかしの笑声ではない。道也先生はひやかしの笑声を好意の笑声で揉《も》み潰《つぶ》したのである。
「せんだって学問を専門にする人が来て、私《わたし》も妻《さい》をもろうて子が出来た。これから金を溜《た》めねばならぬ。是非共子供に立派な教育をさせるだけは今のうちに貯蓄して置かねばならん。しかしどうしたら貯蓄が出来るでしょうかと聞いた。
「どうしたら学問で金がとれるだろうと云う質問ほど馬鹿気た事はない。学問は学者になるものである。金になるものではない。学問をして金をとる工夫《くふう》を考えるのは北極へ行って虎狩をするようなものである」
 満場はまたちょっとどよめいた。
「一般の世人は労力と金の関係について大《だい》なる誤謬《ごびゅう》を有している。彼らは相応の学問をすれば相応の金がとれる見込のあるものだと思う。そんな条理は成立する訳がない。学問は金に遠ざかる器械である。金がほしければ金を目的にする実業家とか商買人になるがいい。学者と町人とはまるで別途の人間であって、学者が金を予期して学問をするのは、町人が学問を目的にして丁稚《でっち》に住み込むようなものである」
「そうかなあ」と突飛《とっぴ》な声を出す奴《やつ》がいる。聴衆はどっと笑った。道也先生は平然として笑《わらい》のしずまるのを待っている。
「だから学問のことは学者に聞かなければならん。金が欲しければ町人の所へ持って行くよりほかに致し方はない」
「金が欲しい」とまぜかえす奴が出る。誰だかわからない。道也先生は「欲しいでしょう」と云ったぎり進行する。
「学問すなわち物の理がわかると云う事と生活の自由すなわち金があると云う事とは独立して関係のないのみならず、かえって反対のものである。学者であればこそ金がないのである。金を取るから学者にはなれないのである。学者は金がない代りに物の理がわかるので、町人は理窟《りくつ》がわからないから、その代りに金を儲《もう》ける」
 何か云うだろうと思って道也先生は二十秒ほど絶句して待っている。誰も何も云わない。
「それを心得んで金のある所には理窟もあると考えているのは愚《ぐ》の極《きょく》である。しかも世間一般はそう誤認している。あの人は金持ちで世間が尊敬しているからして理窟もわかっているに違ない、カルチュアーもあるにきまっていると――こう考える。ところがその実はカルチュアーを受ける暇がなければこそ金をもうける時間が出来たのである。自然は公平なもので一人の男に金ももうけさせる、同時にカルチュアーも授けると云うほど贔屓《ひいき》にはせんのである。この見やすき道理も弁《べん》ぜずして、かの金持ち共は己惚《うぬぼ》れて……」
「ひや、ひや」「焼くな」「しっ、しっ」だいぶ賑《にぎ》やかになる。
「自分達は社会の上流に位して一般から尊敬されているからして、世の中に自分ほど理窟《りくつ》に通じたものはない。学者だろうが、何だろうがおれに頭をさげねばならんと思うのは憫然《びんぜん》のしだいで、彼らがこんな考を起す事自身がカルチュアーのないと云う事実を証明している」
 高柳君の眼は輝やいた。血が双頬《そうきょう》に上《のぼ》ってくる。
「訳《わけ》のわからぬ彼らが己惚《うぬぼれ》はとうてい済度《さいど》すべからざる事とするも、天下社会から、彼らの己惚をもっともだと是認するに至っては愛想《あいそ》の尽きた不見識と云わねばならぬ。よく云う事だが、あの男もあのくらいな社会上の地位にあって相応の財産も所有している事だから万更そんな訳のわからない事もなかろう。豈計《あにはか》らんやある場合には、そんな社会上の地位を得て相当の財産を
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