場はしんとしている。
「明治四十年の日月《じつげつ》は、明治開化の初期である。さらに語《ご》を換《か》えてこれを説明すれば今日の吾人《ごじん》は過去を有《も》たぬ開化のうちに生息している。したがって吾人は過去を伝うべきために生れたのではない。――時は昼夜《ちゅうや》を舎《す》てず流れる。過去のない時代はない。――諸君誤解してはなりません。吾人は無論過去を有している。しかしその過去は老耄《ろうもう》した過去か、幼稚な過去である。則《のっ》とるに足るべき過去は何にもない。明治の四十年は先例のない四十年である」
聴衆のうちにそうかなあと云う顔をしている者がある。
「先例のない社会に生れたものほど自由なものはない。余は諸君がこの先例のない社会に生れたのを深く賀するものである」
「ひや、ひや」と云う声が所々《しょしょ》に起る。
「そう早合点《はやがてん》に賛成されては困る。先例のない社会に生れたものは、自から先例を作らねばならぬ。束縛のない自由を享《う》けるものは、すでに自由のために束縛されている。この自由をいかに使いこなすかは諸君の権利であると同時に大《だい》なる責任である。諸君。偉大なる理想を有せざる人の自由は堕落であります」
言い切った道也先生は、両手を机の上に置いて満場を見廻した。雷《らい》が落ちたような気合《けあい》である。
「個人について論じてもわかる。過去を顧《かえり》みる人は半白《はんぱく》の老人である。少壮の人に顧みるべき過去はないはずである。前途に大《だい》なる希望を抱くものは過去を顧みて恋々《れんれん》たる必要がないのである。――吾人《ごじん》が今日生きている時代は少壮の時代である。過去を顧みるほどに老い込んだ時代ではない。政治に伊藤侯や山県侯を顧みる時代ではない。実業に渋沢|男《だん》や岩崎男を顧みる時代ではない。……」
「大気※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《だいきえん》」と評したのは高柳君の隣りにいた薩摩絣《さつまがすり》である。高柳君はむっとした。
「文学に紅葉氏一葉氏を顧みる時代ではない。これらの人々は諸君の先例になるがために生きたのではない。諸君を生むために生きたのである。最前《さいぜん》の言葉を用いればこれらの人々は未来のために生きたのである。子のために存在したのである。しかして諸君は自己のために存在するのである。――およそ一時代にあって初期の人は子のために生きる覚悟をせねばならぬ。中期の人は自己のために生きる決心が出来ねばならぬ。後期の人は父のために生きるあきらめをつけなければならぬ。明治は四十年立った。まず初期と見て差支《さしつかえ》なかろう。すると現代の青年たる諸君は大《おおい》に自己を発展して中期をかたちづくらねばならぬ。後《うし》ろを顧みる必要なく、前を気遣《きづか》う必要もなく、ただ自我を思《おもい》のままに発展し得る地位に立つ諸君は、人生の最大愉快を極《きわ》むるものである」
満場は何となくどよめき渡った。
「なぜ初期のものが先例にならん? 初期はもっとも不秩序の時代である。偶然の跋扈《ばっこ》する時代である。僥倖《ぎょうこう》の勢《いきおい》を得る時代である。初期の時代において名を揚《あ》げたるもの、家を起したるもの、財を積みたるもの、事業をなしたるものは必ずしも自己の力量に由《よ》って成功したとは云われぬ。自己の力量によらずして成功するは士のもっとも恥辱とするところである。中期のものはこの点において遥《はる》かに初期の人々よりも幸福である。事を成すのが困難であるから幸福である。困難にもかかわらず僥倖が少ないから幸福である。困難にもかかわらず力量しだいで思うところへ行けるほどの余裕があり、発展の道があるから幸福である。後期に至るとかたまってしまう。ただ前代を祖述《そじゅつ》するよりほかに身動きがとれぬ。身動きがとれなくなって、人間が腐った時、また波瀾《はらん》が起る。起らねば化石するよりほかにしようがない。化石するのがいやだから、自《みず》から波瀾を起すのである。これを革命と云うのである。
「以上は明治の天下にあって諸君の地位を説明したのである。かかる愉快な地位に立つ諸君はこの愉快に相当する理想を養わねばならん」
道也先生はここにおいて一転語《いってんご》を下した。聴衆は別にひやかす気もなくなったと見える。黙っている。
「理想は魂である。魂は形がないからわからない。ただ人の魂の、行為に発現するところを見て髣髴《ほうふつ》するに過ぎん。惜しいかな現代の青年はこれを髣髴することが出来ん。これを過去に求めてもない、これを現代に求めてはなおさらない。諸君は家庭に在《あ》って父母を理想とする事が出来ますか」
あるものは不平な顔をした。しかしだまっている。
「学校に在っ
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