「どこへ行ったんだい」と青年が聞く。
「今ぐるぐる巡《まわ》って、休もうと思ったが、どこも空《あ》いていない。駄目《だめ》だ、ただで掛けられる所はみんな人が先へかけている。なかなか抜目《ぬけめ》はないもんだな」
「天気がいいせいだよ。なるほど随分人が出ているね。――おい、あの孟宗藪《もうそうやぶ》を回って噴水の方へ行く人を見たまえ」
「どれ。あの女か。君の知ってる人かね」
「知るものか」
「それじゃ何で見る必要があるのだい」
「あの着物の色さ」
「何だか立派なものを着ているじゃないか」
「あの色を竹藪の傍へ持って行くと非常にあざやかに見える。あれは、こう云う透明な秋の日に照らして見ないと引き立たないんだ」
「そうかな」
「そうかなって、君そう感じないか」
「別に感じない。しかし奇麗《きれい》は奇麗だ」
「ただ奇麗だけじゃ可哀想《かわいそう》だ。君はこれから作家になるんだろう」
「そうさ」
「それじゃもう少し感じが鋭敏でなくっちゃ駄目だぜ」
「なに、あんな方は鈍くってもいいんだ。ほかに鋭敏なところが沢山あるんだから」
「ハハハハそう自信があれば結構だ。時に君せっかく逢《あ》ったものだから、もう一遍あるこうじゃないか」
「あるくのは、真平《まっぴら》だ。これからすぐ電車へ乗って帰えらないと午食《ひるめし》を食い損《そく》なう」
「その午食を奢《おご》ろうじゃないか」
「うん、また今度にしよう」
「なぜ? いやかい」
「厭《いや》じゃない――厭じゃないが、始終|御馳走《ごちそう》にばかりなるから」
「ハハハ遠慮か。まあ来たまえ」と青年は否応《いやおう》なしに高柳君を公園の真中の西洋料理屋へ引っ張り込んで、眺望《ちょうぼう》のいい二階へ陣を取る。
 注文の来る間、高柳君は蒼《あお》い顔へ両手で突《つ》っかい棒《ぼう》をして、さもつかれたと云う風に往来を見ている。青年は独《ひと》りで「ふんだいぶ広いな」「なかなか繁昌《はんじょう》すると見える」「なんだ、妙な所へ姿見の広告などを出して」などと半分口のうちで云うかと思ったら、やがて洋袴《ズボン》の隠袋《かくし》へ手を入れて「や、しまった。煙草《たばこ》を買ってくるのを忘れた」と大きな声を出した。
「煙草なら、ここにあるよ」と高柳君は「敷島」の袋を白い卓布《たくふ》の上へ抛《ほう》り出す。
 ところへ下女が御誂《おあつらえ》を持ってくる。煙草に火を点《つ》ける間《ま》はなかった。
「これは樽麦酒《たるビール》だね。おい君樽麦酒の祝杯を一つ挙《あ》げようじゃないか」と青年は琥珀色《こはくいろ》の底から湧《わ》き上がる泡《あわ》をぐいと飲む。
「何の祝杯を挙げるのだい」と高柳君は一口飲みながら青年に聞いた。
「卒業祝いさ」
「今頃卒業祝いか」と高柳君は手のついた洋盃《コップ》を下へおろしてしまった。
「卒業は生涯《しょうがい》にたった一度しかないんだから、いつまで祝ってもいいさ」
「たった一度しかないんだから祝わないでもいいくらいだ」
「僕とまるで反対だね。――姉さん、このフライは何だい。え? 鮭《さけ》か。ここん所《とこ》へ君、このオレンジの露をかけて見たまえ」と青年は人指指《ひとさしゆび》と親指の間からちゅうと黄色い汁を鮭の衣《ころも》の上へ落す。庭の面《おもて》にはらはらと降る時雨《しぐれ》のごとく、すぐ油の中へ吸い込まれてしまった。
「なるほどそうして食うものか。僕は装飾についてるのかと思った」
 姿見の札幌麦酒《さっぽろビール》の広告の本《もと》に、大きくなって構えていた二人の男が、この時急に大きな破《わ》れるような声を出して笑い始めた。高柳君はオレンジをつまんだまま、厭な顔をして二人を見る。二人はいっこう構わない。
「いや行くよ。いつでも行くよ。エヘヘヘヘ。今夜行こう。あんまり気が早い。ハハハハハ」
「エヘヘヘヘ。いえね、実はね、今夜あたり君を誘って繰り出そうと思っていたんだ。え? ハハハハ。なにそれほどでもない。ハハハハ。そら例のが、あれでしょう。だから、どうにもこうにもやり切れないのさ。エヘヘヘヘ、アハハハハハハ」
 土鍋《どなべ》の底のような赭《あか》い顔が広告の姿見に写って崩《くず》れたり、かたまったり、伸びたり縮んだり、傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に動揺している。高柳君は一種異様な厭な眼つきを転じて、相手の青年を見た。
「商人だよ」と青年が小声に云う。
「実業家かな」と高柳君も小声に答えながら、とうとうオレンジを絞《しぼ》るのをやめてしまった。
 土鍋の底は、やがて勘定を払って、ついでに下女にからかって、二階を買い切ったような大きな声を出して、そうして出て行った。
「おい中野君」
「むむ?」と青年は鳥の肉を口いっぱい頬張《ほおば》っている。
「あの連中《れんじゅう》は世
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