ものです」
 高柳君にはこの言葉の意味がわからなかった。
「わかったですか」と道也先生がきく。
「崇高――なぜ……」
「それが、わからなければ、とうてい一人坊っちでは生きていられません。――君は人より高い平面にいると自信しながら、人がその平面を認めてくれないために一人坊っちなのでしょう。しかし人が認めてくれるような平面ならば人も上《あが》ってくる平面です。芸者や車引《くるまひき》に理会されるような人格なら低いにきまってます。それを芸者や車引も自分と同等なものと思い込んでしまうから、先方から見くびられた時腹が立ったり、煩悶《はんもん》するのです。もしあんなものと同等なら創作をしたって、やっぱり同等の創作しか出来ない訳だ。同等でなければこそ、立派な人格を発揮する作物《さくぶつ》も出来る。立派な人格を発揮する作物が出来なければ、彼らからは見くびられるのはもっともでしょう」
「芸者や車引はどうでもいいですが……」
「例はだれだって同じ事です。同じ学校を同じに卒業した者だって変りはありません。同じ卒業生だから似たものだろうと思うのは教育の形式が似ているのを教育の実体が似ているものと考え違《ちがい》した議論です。同じ大学の卒業生が同じ程度のものであったら、大学の卒業生はことごとく後世に名を残すか、またはことごとく消えてしまわなくってはならない。自分こそ後世に名を残そうと力《りき》むならば、たとい同じ学校の卒業生にもせよ、ほかのものは残らないのだと云う事を仮定してかからなければなりますまい。すでにその仮定があるなら自分と、ほかの人とは同様の学士であるにもかかわらずすでに大差別があると自認した訳じゃありませんか。大差別があると自任しながら他《ひと》が自分を解してくれんと云って煩悶するのは矛盾です」
「それで先生は後世に名を残すおつもりでやっていらっしゃるんですか」
「わたしのは少し、違います。今の議論はあなたを本位にして立てた議論です。立派な作物を出して後世に伝えたいと云うのが、あなたの御希望のようだから御話しをしたのです」
「先生のが承《うけたまわ》る事が出来るなら、教えて頂けますまいか」
「わたしは名前なんてあてにならないものはどうでもいい。ただ自分の満足を得《う》るために世のために働くのです。結果は悪名になろうと、臭名《しゅうめい》になろうと気狂《きちがい》になろうと仕方がない。ただこう働かなくっては満足が出来ないから働くまでの事です。こう働かなくって満足が出来ないところをもって見ると、これが、わたしの道に相違ない。人間は道に従うよりほかにやりようのないものだ。人間は道の動物であるから、道に従うのが一番|貴《たっと》いのだろうと思っています。道に従う人は神も避けねばならんのです。岩崎の塀《へい》なんか何でもない。ハハハハ」
 剥《は》げかかった山高帽を阿弥陀《あみだ》に被《かぶ》って毛繻子張《けじゅすば》りの蝙蝠傘《こうもり》をさした、一人坊《ひとりぼ》っちの腰弁当の細長い顔から後光《ごこう》がさした。高柳君ははっと思う。
 往来のものは右へ左へ行く。往来の店は客を迎え客を送る。電車は出来るだけ人を載《の》せて東西に走る。織るがごとき街《ちまた》の中に喪家《そうか》の犬のごとく歩む二人は、免職になりたての属官と、堕落した青書生と見えるだろう。見えても仕方がない。道也はそれでたくさんだと思う。周作はそれではならぬと思う。二人は四丁目の角でわかれた。

        九

 小春の日に温《ぬく》め返された別荘の小天地を開いて結婚の披露《ひろう》をする。
 愛は偏狭《へんきょう》を嫌《きら》う、また専有をにくむ。愛したる二人の間に有り余る情《じょう》を挙《あ》げて、博《ひろ》く衆生《しゅじょう》を潤《うる》おす。有りあまる財を抛《なげう》って多くの賓格《ひんかく》を会《かい》す。来らざるものは和楽《わらく》の扇に麾《さしまね》く風を厭《いと》うて、寒き雪空に赴《おもむ》く鳧雁《ふがん》の類《るい》である。
 円満なる愛は触るるところのすべてを円満にす。二人の愛は曇り勝ちなる時雨《しぐれ》の空さえも円満にした。――太陽の真上に照る日である。照る事は誰でも知るが、だれも手を翳《かざ》して仰ぎ見る事のならぬくらい明《あきら》かに照る日である。得意なるものに明かなる日の嫌なものはない。客は車を駆って東西南北より来る。
 杉の葉の青きを択《えら》んで、丸柱の太きを装《よそお》い、頭《かしら》の上一丈にて二本を左右より平《たいら》に曲げて続《つ》ぎ合せたるをアーチと云う。杉の葉の青きはあまりに厳《おごそか》に過ぐ。愛の郷に入るものは、ただおごそかなる門を潜《くぐ》るべからず。青きものは暖かき色に和《やわら》げられねばならぬ。
 裂けば煙《けぶ》る蜜柑《
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