すぐ座敷である。南が玄関で塞《ふさ》がれているので、突き当りの障子が、日向《ひなた》から急に這入《はい》って来た眸《ひとみ》には、うそ寒く映った。そこを開けると、廂《ひさし》に逼《せま》るような勾配《こうばい》の崖《がけ》が、縁鼻《えんばな》から聳《そび》えているので、朝の内は当って然《しか》るべきはずの日も容易に影を落さない。崖には草が生えている。下からして一側《ひとかわ》も石で畳んでないから、いつ壊《くず》れるか分らない虞《おそれ》があるのだけれども、不思議にまだ壊れた事がないそうで、そのためか家主《やぬし》も長い間昔のままにして放ってある。もっとも元は一面の竹藪《たけやぶ》だったとかで、それを切り開く時に根だけは掘り返さずに土堤《どて》の中に埋めて置いたから、地《じ》は存外|緊《しま》っていますからねと、町内に二十年も住んでいる八百屋の爺《おやじ》が勝手口でわざわざ説明してくれた事がある。その時宗助はだって根が残っていれば、また竹が生えて藪になりそうなものじゃないかと聞き返して見た。すると爺は、それがね、ああ切り開かれて見ると、そう甘《うま》く行くもんじゃありませんよ。しかし崖だけは大丈夫です。どんな事があったって壊《く》えっこはねえんだからと、あたかも自分のものを弁護でもするように力《りき》んで帰って行った。
崖は秋に入《い》っても別に色づく様子もない。ただ青い草の匂《におい》が褪《さ》めて、不揃《ぶそろ》にもじゃもじゃするばかりである。薄《すすき》だの蔦《つた》だのと云う洒落《しゃれ》たものに至ってはさらに見当らない。その代り昔の名残《なご》りの孟宗《もうそう》が中途に二本、上の方に三本ほどすっくりと立っている。それが多少黄に染まって、幹に日の射《さ》すときなぞは、軒から首を出すと、土手の上に秋の暖味《あたたかみ》を眺《なが》められるような心持がする。宗助は朝出て四時過に帰る男だから、日の詰《つ》まるこの頃は、滅多《めった》に崖の上を覗《のぞ》く暇《ひま》を有《も》たなかった。暗い便所から出て、手水鉢《ちょうずばち》の水を手に受けながら、ふと廂《ひさし》の外を見上げた時、始めて竹の事を思い出した。幹の頂《いただき》に濃《こま》かな葉が集まって、まるで坊主頭《ぼうずあたま》のように見える。それが秋の日に酔って重く下を向いて、寂《ひっ》そりと重なった葉が一枚も動かない。
宗助は障子を閉《た》てて座敷へ帰って、机の前へ坐った。座敷とは云いながら客を通すからそう名づけるまでで、実は書斎とか居間とか云う方が穏当である。北側に床《とこ》があるので、申訳のために変な軸《じく》を掛けて、その前に朱泥《しゅでい》の色をした拙《せつ》な花活《はないけ》が飾ってある。欄間《らんま》には額《がく》も何もない。ただ真鍮《しんちゅう》の折釘《おれくぎ》だけが二本光っている。その他には硝子戸《ガラスど》の張った書棚が一つある。けれども中には別にこれと云って目立つほどの立派なものも這入っていない。
宗助は銀金具《ぎんかなぐ》の付いた机の抽出《ひきだし》を開けてしきりに中を検《しら》べ出したが、別に何も見つけ出さないうちに、はたりと締《あきら》めてしまった。それから硯箱《すずりばこ》の葢《ふた》を取って、手紙を書き始めた。一本書いて封をして、ちょっと考えたが、
「おい、佐伯《さえき》のうちは中六番町《なかろくばんちょう》何番地だったかね」と襖|越《ごし》に細君に聞いた。
「二十五番地じゃなくって」と細君は答えたが、宗助が名宛を書き終る頃になって、
「手紙じゃ駄目よ、行ってよく話をして来なくっちゃ」と付け加えた。
「まあ、駄目までも手紙を一本出しておこう。それでいけなかったら出掛けるとするさ」と云い切ったが、細君が返事をしないので、
「ねえ、おい、それで好いだろう」と念を押した。
細君は悪いとも云い兼ねたと見えて、その上争いもしなかった。宗助は郵便を持ったまま、座敷から直《す》ぐ玄関に出た。細君は夫の足音を聞いて始めて、座を立ったが、これは茶の間の縁伝《えんづた》いに玄関に出た。
「ちょっと散歩に行って来るよ」
「行っていらっしゃい」と細君は微笑しながら答えた。
三十分ばかりして格子《こうし》ががらりと開《あ》いたので、御米はまた裁縫《しごと》の手をやめて、縁伝いに玄関へ出て見ると、帰ったと思う宗助の代りに、高等学校の制帽を被《かぶ》った、弟の小六《ころく》が這入《はい》って来た。袴《はかま》の裾《すそ》が五六寸しか出ないくらいの長い黒羅紗《くろらしゃ》のマントの釦《ボタン》を外《はず》しながら、
「暑い」と云っている。
「だって余《あん》まりだわ。この御天気にそんな厚いものを着て出るなんて」
「何、日が暮れたら寒いだろうと思って」と小六は云
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