て、毎日役所へ出てはまた役所から帰って来た。帰りも遅いが、帰ってから出かけるなどという億劫《おっくう》な事は滅多《めった》になかった。客はほとんど来ない。用のない時は清を十時前に寝《ね》かす事さえあった。夫婦は毎夜同じ火鉢の両側に向き合って、食後一時間ぐらい話をした。話の題目は彼らの生活状態に相応した程度のものであった。けれども米屋の払を、この三十日《みそか》にはどうしたものだろうという、苦しい世帯話は、いまだかつて一度も彼らの口には上らなかった。と云って、小説や文学の批評はもちろんの事、男と女の間を陽炎《かげろう》のように飛び廻る、花やかな言葉のやりとりはほとんど聞かれなかった。彼らはそれほどの年輩でもないのに、もうそこを通り抜けて、日ごとに地味になって行く人のようにも見えた。または最初から、色彩の薄い極《きわ》めて通俗の人間が、習慣的に夫婦の関係を結ぶために寄り合ったようにも見えた。
 上部《うわべ》から見ると、夫婦ともそう物に屈托《くったく》する気色《けしき》はなかった。それは彼らが小六の事に関して取った態度について見てもほぼ想像がつく。さすが女だけに御米は一二度、
「安さんは、まだ帰らないんでしょうかね。あなた今度《こんだ》の日曜ぐらいに番町まで行って御覧なさらなくって」と注意した事があるが、宗助は、
「うん、行っても好い」ぐらいな返事をするだけで、その行っても好い日曜が来ると、まるで忘れたように済ましている。御米もそれを見て、責める様子もない。天気が好いと、
「ちと散歩でもしていらっしゃい」と云う。雨が降ったり、風が吹いたりすると、
「今日は日曜で仕合せね」と云う。
 幸にして小六はその後《ご》一度もやって来ない。この青年は、至って凝《こ》り性《しょう》の神経質で、こうと思うとどこまでも進んで来るところが、書生時代の宗助によく似ている代りに、ふと気が変ると、昨日《きのう》の事はまるで忘れたように引っ繰り返って、けろりとした顔をしている。そこも兄弟だけあって、昔の宗助にそのままである。それから、頭脳が比較的|明暸《めいりょう》で、理路に感情を注《つ》ぎ込むのか、または感情に理窟《りくつ》の枠《わく》を張るのか、どっちか分らないが、とにかく物に筋道を付けないと承知しないし、また一返《いっぺん》筋道が付くと、その筋道を生かさなくってはおかないように熱中したがる。その上体質の割合に精力がつづくから、若い血気に任せて大抵の事はする。
 宗助は弟を見るたびに、昔の自分が再び蘇生《そせい》して、自分の眼の前に活動しているような気がしてならなかった。時には、はらはらする事もあった。また苦々《にがにが》しく思う折もあった。そう云う場合には、心のうちに、当時の自分が一図に振舞った苦い記憶を、できるだけしばしば呼び起させるために、とくに天が小六を自分の眼の前に据《す》え付けるのではなかろうかと思った。そうして非常に恐ろしくなった。こいつもあるいはおれと同一の運命に陥《おちい》るために生れて来たのではなかろうかと考えると、今度は大いに心がかりになった。時によると心がかりよりは不愉快であった。
 けれども、今日《こんにち》まで宗助は、小六に対して意見がましい事を云った事もなければ、将来について注意を与えた事もなかった。彼の弟に対する待遇|方《ほう》はただ普通|凡庸《ぼんよう》のものであった。彼の今の生活が、彼のような過去を有っている人とは思えないほどに、沈んでいるごとく、彼の弟を取り扱う様子にも、過去と名のつくほどの経験を有《も》った年長者の素振《そぶり》は容易に出なかった。
 宗助と小六の間には、まだ二人ほど男の子が挟《はさ》まっていたが、いずれも早世《そうせい》してしまったので、兄弟とは云いながら、年は十《とお》ばかり違っている。その上宗助はある事情のために、一年の時京都へ転学したから、朝夕《ちょうせき》いっしょに生活していたのは、小六の十二三の時までである。宗助は剛情《ごうじょう》な聴《き》かぬ気の腕白小僧としての小六をいまだに記憶している。その時分は父も生きていたし、家《うち》の都合も悪くはなかったので、抱車夫《かかえしゃふ》を邸内の長屋に住まわして、楽に暮していた。この車夫に小六よりは三つほど年下の子供があって、始終《しじゅう》小六の御相手をして遊んでいた。ある夏の日盛りに、二人して、長い竿《さお》のさきへ菓子袋を括《くく》り付けて、大きな柿の木の下で蝉《せみ》の捕りくらをしているのを、宗助が見て、兼坊《けんぼう》そんなに頭を日に照らしつけると霍乱《かくらん》になるよ、さあこれを被《かぶ》れと云って、小六の古い夏帽を出してやった。すると、小六は自分の所有物を兄が無断で他《ひと》にくれてやったのが、癪《しゃく》に障《さわ》ったので、突
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