今では以前と違って、まあ普通の小舅《こじゅうと》ぐらいの親しみはあると信じているようなものの、こんな場合になると、つい実際以上にも気を回して、自分だけが小六の来ない唯一《ゆいいつ》の原因のように考えられるのであった。
「そりゃ下宿からこんな所へ移るのは好かあないだろうよ。ちょうどこっちが迷惑を感ずる通り、向うでも窮屈を感ずる訳だから。おれだって、小六が来ないとすれば、今のうち思い切って外套《マント》を作るだけの勇気があるんだけれども」
 宗助は男だけに思い切ってこう云ってしまった。けれどもこれだけでは御米の心を尽していなかった。御米は返事もせずに、しばらく黙っていたが、細い腮《あご》を襟《えり》の中へ埋《う》めたまま、上眼《うわめ》を使って、
「小六さんは、まだ私の事を悪《にく》んでいらっしゃるでしょうか」と聞き出した。宗助が東京へ来た当座は、時々これに類似の質問を御米から受けて、その都度《つど》慰めるのにだいぶ骨の折れた事もあったが、近来は全く忘れたように何も云わなくなったので、宗助もつい気に留めなかったのである。
「またヒステリーが始まったね。好いじゃないか小六なんぞが、どう思ったって。おれさえついてれば」
「論語にそう書いてあって」
 御米はこんな時に、こういう冗談《じょうだん》を云う女であった。宗助は
「うん、書いてある」と答えた。それで二人の会話がしまいになった。
 翌日宗助が眼を覚《さ》ますと、亜鉛張《トタンばり》の庇《ひさし》の上で寒い音がした。御米が襷掛《たすきがけ》のまま枕元へ来て、
「さあ、もう時間よ」と注意したとき、彼はこの点滴《てんてき》の音を聞きながら、もう少し暖かい蒲団《ふとん》の中に温《ぬく》もっていたかった。けれども血色のよくない御米の、かいがいしい姿を見るや否《いな》や、
「おい」と云って直《すぐ》起き上った。
 外は濃い雨に鎖《とざ》されていた。崖《がけ》の上の孟宗竹《もうそうちく》が時々|鬣《たてがみ》を振《ふる》うように、雨を吹いて動いた。この侘《わ》びしい空の下へ濡《ぬ》れに出る宗助に取って、力になるものは、暖かい味噌汁《みそしる》と暖かい飯よりほかになかった。
「また靴の中が濡《ぬ》れる。どうしても二足持っていないと困る」と云って、底に小さい穴のあるのを仕方なしに穿《は》いて、洋袴《ズボン》の裾《すそ》を一寸《いっすん》ば
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