を着けた。一二冊手に取って見ると、いずれも婦人用のものであった。宗助はその口絵に出ている女の写真を、何枚も繰り返して眺《なが》めた。それから「成功」と云う雑誌を取り上げた。その初めに、成効の秘訣《ひけつ》というようなものが箇条書にしてあったうちに、何でも猛進しなくってはいけないと云う一カ条と、ただ猛進してもいけない、立派な根底の上に立って、猛進しなくってはならないと云う一カ条を読んで、それなり雑誌を伏せた。「成功」と宗助は非常に縁の遠いものであった。宗助はこういう名の雑誌があると云う事さえ、今日《こんにち》まで知らなかった。それでまた珍らしくなって、いったん伏せたのをまた開けて見ると、ふと仮名《かな》の交らない四角な字が二行ほど並んでいた。それには風《かぜ》碧落《へきらく》を吹《ふ》いて浮雲《ふうん》尽《つ》き、月《つき》東山《とうざん》に上《のぼ》って玉《ぎょく》一団《いちだん》とあった。宗助は詩とか歌とかいうものには、元から余り興味を持たない男であったが、どう云う訳かこの二句を読んだ時に大変感心した。対句《ついく》が旨《うま》くできたとか何とか云う意味ではなくって、こんな景色《けしき》と同じような心持になれたら、人間もさぞ嬉《うれ》しかろうと、ひょっと心が動いたのである。宗助は好奇心からこの句の前に付いている論文を読んで見た。しかしそれはまるで無関係のように思われた。ただこの二句が雑誌を置いた後《あと》でも、しきりに彼の頭の中を徘徊《はいかい》した。彼の生活は実際この四五年来こういう景色に出逢った事がなかったのである。
 その時向うの戸が開《あ》いて、紙片《かみぎれ》を持った書生が野中さんと宗助を手術室へ呼び入れた。
 中へ這入《はい》ると、そこは応接間よりは倍も広かった。光線がなるべく余計取れるように明るく拵《こし》らえた部屋の二側《ふたがわ》に、手術用の椅子《いす》を四台ほど据《す》えて、白い胸掛をかけた受持の男が、一人ずつ別々に療治をしていた。宗助は一番奥の方にある一脚に案内されて、これへと云われるので、踏段のようなものの上へ乗って、椅子へ腰をおろした。書生が厚い縞入《しまいり》の前掛で丁寧《ていねい》に膝《ひざ》から下を包《くる》んでくれた。
 こう穏《おだ》やかに寝《ね》かされた時、宗助は例の歯がさほど苦になるほど痛んでいないと云う事を発見した。それば
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