ちぱちさせながら、
「寝やせん、大丈夫だ」と小声で答えた。
それからまた静かになった。外を通る護謨車《ゴムぐるま》のベルの音が二三度鳴った後《あと》から、遠くで鶏の時音《とき》をつくる声が聞えた。宗助は仕立《したて》おろしの紡績織《ぼうせきおり》の背中へ、自然《じねん》と浸み込んで来る光線の暖味《あたたかみ》を、襯衣《シャツ》の下で貪《むさ》ぼるほど味《あじわ》いながら、表の音を聴《き》くともなく聴いていたが、急に思い出したように、障子越しの細君を呼んで、
「御米《およね》、近来《きんらい》の近《きん》の字はどう書いたっけね」と尋ねた。細君は別に呆《あき》れた様子もなく、若い女に特有なけたたましい笑声も立てず、
「近江《おうみ》のおう[#「おう」に傍点]の字じゃなくって」と答えた。
「その近江《おうみ》のおう[#「おう」に傍点]の字が分らないんだ」
細君は立て切った障子を半分ばかり開けて、敷居の外へ長い物指《ものさし》を出して、その先で近の字を縁側へ書いて見せて、
「こうでしょう」と云ったぎり、物指の先を、字の留った所へ置いたなり、澄み渡った空を一しきり眺《なが》め入った。宗助は細君の顔も見ずに、
「やっぱりそうか」と云ったが、冗談《じょうだん》でもなかったと見えて、別に笑もしなかった。細君も近の字はまるで気にならない様子で、
「本当に好い御天気だわね」と半《なか》ば独《ひと》り言《ごと》のように云いながら、障子を開けたまままた裁縫《しごと》を始めた。すると宗助は肱で挟んだ頭を少し擡《もた》げて、
「どうも字と云うものは不思議だよ」と始めて細君の顔を見た。
「なぜ」
「なぜって、いくら容易《やさし》い字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分らなくなる。この間も今日《こんにち》の今《こん》の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違ったような気がする。しまいには見れば見るほど今《こん》らしくなくなって来る。――御前《おまい》そんな事を経験した事はないかい」
「まさか」
「おれだけかな」と宗助は頭へ手を当てた。
「あなたどうかしていらっしゃるのよ」
「やっぱり神経衰弱のせいかも知れない」
「そうよ」と細君は夫の顔を見た。夫はようやく立ち上った。
針箱と糸屑《いとくず》の上を飛び越すように跨《また》いで、茶の間の襖《ふすま》を開けると、
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