ごとく、互の心も離れ離れになったに違なかった。
ところがそれからまた二日置いて、三日目の暮れ方に、獺《かわうそ》の襟《えり》の着いた暖かそうな外套《マント》を着て、突然坂井が宗助の所へやって来た。夜間客に襲《おそ》われつけない夫婦は、軽微の狼狽《ろうばい》を感じたくらい驚ろかされたが、座敷へ上げて話して見ると、坂井は丁寧に先日の礼を述べた後《のち》、
「御蔭で取られた品物がまた戻りましたよ」と云いながら、白縮緬《しろちりめん》の兵児帯《へこおび》に巻き付けた金鎖を外《はず》して、両葢《りょうぶた》の金時計を出して見せた。
規則だから警察へ届ける事は届けたが、実はだいぶ古い時計なので、取られてもそれほど惜しくもないぐらいに諦《あき》らめていたら、昨日《きのう》になって、突然差出人の不明な小包が着いて、その中にちゃんと自分の失《な》くしたのが包《くる》んであったんだと云う。
「泥棒も持ち扱かったんでしょう。それとも余り金にならないんで、やむを得ず返してくれる気になったんですかね。何しろ珍らしい事で」と坂井は笑っていた。それから、
「何私から云うと、実はあの文庫の方がむしろ大切な品でしてね。祖母《ばば》が昔し御殿へ勤めていた時分、戴《いただ》いたんだとか云って、まあ記念《かたみ》のようなものですから」と云うような事も説明して聞かした。
その晩坂井はそんな話を約二時間もして帰って行ったが、相手になった宗助も、茶の間で聞いていた御米も、大変談話の材料に富んだ人だと思わぬ訳に行かなかった。後《あと》で、
「世間の広い方《かた》ね」と御米が評した。
「閑《ひま》だからさ」と宗助が解釈した。
次の日宗助が役所の帰りがけに、電車を降りて横町の道具屋の前まで来ると、例の獺《かわうそ》の襟《えり》を着けた坂井の外套《マント》がちょっと眼に着いた。横顔を往来の方へ向けて、主人を相手に何か云っている。主人は大きな眼鏡を掛けたまま、下から坂井の顔を見上げている。宗助は挨拶《あいさつ》をすべき折でもないと思ったから、そのまま行き過ぎようとして、店の正面まで来ると、坂井の眼が往来へ向いた。
「やあ昨夜は。今御帰りですか」と気軽に声をかけられたので、宗助も愛想《あいそ》なく通り過ぎる訳にも行かなくなって、ちょっと歩調を緩《ゆる》めながら、帽子を取った。すると坂井は、用はもう済んだと云う風をし
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