うしても腰から下は田の中へ浸《つか》って、二時間も三時間も暮らさなければならないんですから、全く身体《からだ》には好くないようです」
主人は時間に制限のない人と見えて、宗助が、なるほどとか、そうですか、とか云っていると、いつまでも話しているので、宗助はやむを得ず中途で立ち上がった。
「これからまた例の通り出かけなければなりませんから」と切り上げると、主人は始めて気がついたように、忙がしいところを引き留めた失礼を謝した。そうしていずれまた刑事が現状を見に行くかも知れないから、その時はよろしく願うと云うような事を述べた。最後に、
「どうかちと御話に。私も近頃はむしろ閑《ひま》な方ですから、また御邪魔に出ますから」と丁寧《ていねい》に挨拶をした。門を出て急ぎ足に宅《うち》へ帰ると、毎朝出る時刻よりも、もう三十分ほど後れていた。
「あなたどうなすったの」と御米が気を揉《も》んで玄関へ出た。宗助はすぐ着物を脱いで洋服に着換えながら、
「あの坂井と云う人はよっぽど気楽な人だね。金があるとああ緩《ゆっ》くりできるもんかな」と云った。
八
「小六《ころく》さん、茶の間から始めて。それとも座敷の方を先にして」と御米《およね》が聞いた。
小六は四五日前とうとう兄の所へ引き移った結果として、今日の障子《しょうじ》の張替《はりかえ》を手伝わなければならない事となった。彼は昔《むか》し叔父の家にいた時、安之助《やすのすけ》といっしょになって、自分の部屋の唐紙《からかみ》を張り替えた経験がある。その時は糊《のり》を盆に溶《と》いたり、箆《へら》を使って見たり、だいぶ本式にやり出したが、首尾好く乾かして、いざ元の所へ建てるという段になると、二枚とも反《そ》っ繰《く》り返って敷居の溝《みぞ》へ嵌《は》まらなかった。それからこれも安之助と共同して失敗した仕事であるが、叔母の云いつけで、障子を張らせられたときには、水道でざぶざぶ枠《わく》を洗ったため、やっぱり乾いた後で、惣体《そうたい》に歪《ゆがみ》ができて非常に困難した。
「姉さん、障子を張るときは、よほど慎重にしないと失策《しくじ》るです。洗っちゃ駄目ですぜ」と云いながら、小六は茶の間の縁側《えんがわ》からびりびり破き始めた。
縁先は右の方に小六のいる六畳が折れ曲って、左には玄関が突き出している。その向うを塀《へい》が縁
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