れた。同時にはたしてそれだけの必要があるかを疑った。御米の思《おも》わくを聞いて見ると、ここで十円足らずの金が入《はい》れば、宗助の穿《は》く新らしい靴を誂《あつ》らえた上、銘仙《めいせん》の一反ぐらいは買えると云うのである。宗助はそれもそうだと思った。けれども親から伝わった抱一の屏風《びょうぶ》を一方に置いて、片方に新らしい靴及び新らしい銘仙《めいせん》を並べて考えて見ると、この二つを交換する事がいかにも突飛《とっぴ》でかつ滑稽《こっけい》であった。
「売るなら売っていいがね。どうせ家《うち》に在《あ》ったって邪魔になるばかりだから。けれどもおれはまだ靴は買わないでも済むよ。この間中みたように、降り続けに降られると困るが、もう天気も好くなったから」
「だってまた降ると困るわ」
宗助は御米に対して永久に天気を保証する訳にも行かなかった。御米も降らない前に是非屏風を売れとも云いかねた。二人は顔を見合して笑っていた。やがて、
「安過ぎるでしょうか」と御米が聞いた。
「そうさな」と宗助が答えた。
彼は安いと云われれば、安いような気がした。もし買手があれば、買手の出すだけの金はいくらでも取りたかった。彼は新聞で、近来古書画の入札が非常に高価になった事を見たような心持がした。せめてそんなものが一幅でもあったらと思った。けれどもそれは自分の呼吸する空気の届くうちには、落ちていないものと諦《あきら》めていた。
「買手にも因《よ》るだろうが、売手にも因るんだよ。いくら名画だって、おれが持っていた分にはとうていそう高く売れっこはないさ。しかし七円や八円てえな、余《あんま》り安いようだね」
宗助は抱一の屏風を弁護すると共に、道具屋をも弁護するような語気を洩《も》らした。そうしてただ自分だけが弁護に価《あたい》しないもののように感じた。御米も少し気を腐らした気味で、屏風の話はそれなりにした。
翌日《あくるひ》宗助は役所へ出て、同僚の誰彼にこの話をした。すると皆申し合せたように、それは価《ね》じゃないと云った。けれども誰も自分が周旋して、相当の価に売払ってやろうと云うものはなかった。またどう云う筋を通れば、馬鹿な目に逢わないで済むという手続を教えてくれるものもなかった。宗助はやっぱり横町の道具屋に屏風を売るよりほかに仕方がなかった。それでなければ元の通り、邪魔でも何でも座敷へ立てて
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