に押し込めたのが今日までの道徳というものであるといっている。それでイブセンの道徳というものは二色《ふたいろ》にしなければならぬのである。男の道徳、女の道徳というようにしなければならぬ。女の方から見ますれば、それが逆にまあならなければならないというのです。その思想、主義から出発して書いたものがイブセンの作の中にある。最も著しい例は、『ノラ』というようなものであります。それがイブセンという人は人間の代表者であると共に彼自身の代表者であるという特殊の点を発揮している。イミテーションではない。今までの道徳はそうだから、たといその道徳は不都合であるとは考えていても、別に仕様《しよう》がないからまあそれに従って置こう、というような余裕のある、そんな自己ではない。もっと特別な猛烈な自己である。それがためイブセンは大変迫害を受けたという訳であります。無論事実|不遇《ふぐう》な人でありました。それのみならずあの人は特殊な人で、人間全体を代表しているというより彼自身を代表している方がよほど多い。そこで国を出て諸方を流浪して、偶《たま》に国へ帰っても評判が宜《よ》くないから、国へは滅多《めった》に帰らなかった。或時国へ帰って来た。国へ帰っても家がないから宿屋に泊っている。その時ブランデスという人がイブセンが来たから歓迎会を開こうというと、イブセンはそんな歓迎会などは御免蒙ると言っている。しかし折角《せっかく》の催しで人数も十二人だけだからといって、漸《ようや》くイブセンを説《と》き伏せた。面倒を省くためにイブセンの泊っている宿屋で、帝国ホテル見たようなところで開くということになり、それでいよいよ当日になって丁度宜い時刻になったから、ブランデスはイブセンの室に行ってドアーをコツコツと叩いて、衣服の用意は出来たかと外から聞いたら、イブセン曰《いわ》く衣服などは持っておらぬ、自分は決して服装などは改めた事はない。シャツを着ている。シャツといっても露西亜辺《ロシアへん》では家の中ではこんな冬の日には温度が七十度位にしてある。本でも読む時は上衣をとっている。外に出る時はこういうものを着るでしょう。それでシャツを着ているのは宜いが、皆んなは燕尾服《えんびふく》を着て来ているのだからというと、イブセンは自分の行李《こうり》の中には燕尾服などは這入っていない、もし燕尾服を着なければならぬようなら御免蒙るという。御客を呼んで、その御客が揃《そろ》っているのに、御免を蒙られては大変だから――そんなことを言わないでどうか出てもらいたい、それじゃ出るという事になったが、ブランデスが実は十二人だった所が、段々と人数が殖《ふ》えて二十四人になったというと、そんな嘘を吐《つ》くならもう出ないという。実に手古摺《てこず》らされたということをブランデス自身が書いている。そんな事で色々面倒なことがあった末、ようよう連れて行ってチャンと坐らせた。ところが大将《たいしょう》大いにふくれていて一口も口を利かない、黙っている。まだ面白い話があるけれどもまあこれ位で切り上げてしまいましょう。とにかく人間を代表しても獣《けだもの》を代表しても、イブセンはイブセンを代表していると言った方が宜い。イブセンはイブセンなりと言った方が当っている。そういう特殊な人であります。この話は幼稚でありますが、今のイブセンの道徳の見解からいっても、イブセンはイミテーションという側の反対に立った人といわなければならない訳であります。
 それで、人間にはこの二通りの人がある。というと、片方と片方は紅白見たように別れているように見えますが、一人の人がこの両面を有《も》っているということが一番適切である。人間には二種の何とかがあるということを能《よ》くいうものですが、それは大変間違いだ。そうすると片方は片方だけの性格しか具《そな》えていないようになる。議論する人はそういう風になるから、あとがどうも事実から出発していない議論に陥ってしまう。とにかく二通りの人間があるということを言うが、これはこの両面を持っているというのが、これが本統《ほんとう》の事でしょう。いくらオリヂナルの人でもイミテーションの分子を何処かに持っている。イミテーションの側に立って考えると、これはどういう人がイミテーターかというと、要するにイミテーターというものは人の真似をする。それだから自分に標準はない。あるいはあっても標準を立て通すだけの強い猛烈な勇気を欠いているか、どっちかなのである。しかしながらインデペンデントの側の方は、自分に一種の目安《めやす》がある。アイデアル・センセーション、それが個人的になっておって、とにかくそれを言い現わし、それを実行しなければいても立ってもどうしてもいられない。風変《ふうがわ》りではあるが、人からいくら非難されても、御前
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