事情を原因におかなくっちゃいけない。その上祐天がちっとも愚鈍らしくない。いやに色気があって、そうして黄色い声を出す。のみならずむやみに泣いて愚痴《ぐち》ばかり並べている。あの山を上るところなどは一起一仆《いっきいっぷ》ことごとく誇張と虚偽である。鬘《かつら》の上から水などを何杯浴びたって、ちっとも同情は起らない。あれを真面目に見ているのは、虚偽の因襲に囚《とら》われた愚かな見物である。
○立ち廻りとか、だんまり[#「だんまり」に傍点]とか号するものは、前後の筋に関係なき、独立したる体操、もしくは滑稽踊《こっけいおどり》として賞翫《しょうがん》されているらしい。筋の発展もしくは危機|切逼《せっぱく》という点から見たら、いかにも常識を欠いた暢気《のんき》な行動である。もしくは過長の運動である。その代り単なる体操もしくは踊として見ればなかなか発達したものである。
○御俊《おしゅん》伝兵衛は大層面白かった。あれは他《ほか》のもののように馬鹿気《ばかげ》た点がない。芸術と、人情と、頭脳が、平均を保っている。また渾然融合《こんぜんゆうごう》している。幕の開いた時の感じもよかった。幕の閉まる時の人物の位置態度も大変よかった。そうして御俊も伝兵衛も綺麗《きれい》であった。ただ与次郎なるものが少々やりすぎる。今一歩うち場に控えればあんな厭味《いやみ》は出ないはずである。
○しまいの踊は綺麗で愉快だった。見ていて人情も頭脳もいらない。ただ芸術的に眼を喜ばせる単純なものであるから、そこが自分にはすこぶる結構であった。
○最後に一言するが、自分は午後の一時から、夜の十一時まで明治座の中で暮した。時間から云うと大変なものである。これは日本の芝居が安過ぎるか、または見物が慾張り過ぎる証拠《しょうこ》である。実を云うと自分はもっと早くすむ方が便利であった。ただ、まだあるものを途中で出るのはもったいないから、消極的に慾張ってしまいまでいたのである。自分と同感の人も大分あるだろうと思う。しかし見物が積極的に、この長時間に比例するほど慾張るが故、役者もやむをえず働らくとすれば役者ははなはだ気の毒である。同盟してもっと見物賃を上げるが好い。牛肉でも葱《ねぎ》でも外の諸式はもっとぐっと高くなりつつある。



底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年7月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月にかけて刊行
入力:柴田卓治
校正:大野晋
1999年6月14日公開
2003年11月28日修正
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