福岡は長男の真弓《まゆみ》が今年から籍を置いた大学の所在地でもあった。
この二人の従妹《いとこ》のどっちも、貰おうとすれば容易《たやす》く貰える地位にあった津田の眼から見ると、けっして自分の細君として適当の候補者ではなかった。だから彼は知らん顔をして過ぎた。当時彼の取った態度を、叔母の今の言葉と結びつけて考えた津田は、別にこれぞと云って疾《や》ましい点も見出し得なかったので、何気ない風をして叔母の動作を見守っていた。その叔母はついと立って戸棚の中にある支那鞄《しなかばん》の葢《ふた》を開けて、手に持った畳紙をその中にしまった。
二十八
奥の四畳半で先刻《さっき》からお金《きん》さんに学課の復習をして貰《もら》っていた真事《まこと》が、突然お金さんにはまるで解らない仏蘭西語《フランスご》の読本を浚《さら》い始めた。ジュ・シュイ・ポリ、とか、チュ・エ・マラード、とか、一字一字の間にわざと長い句切《くぎり》を置いて読み上げる小学二年生の頓狂《とんきょう》な声を、例《いつも》ながらおかしく聞いている津田の頭の上で、今度は柱時計がボンボンと鳴った。彼はすぐ袂《たもと》に入れてあるリチネを取り出して、飲みにくそうに、どろどろした油の色を眺めた。すると、客間でも時計の音に促《うな》がされたような叔父の声がした。
「じゃあっちへ行こう」
叔父と小林は縁伝いに茶の間へ入って来た。津田はちょっと居住居《いずまい》を直して叔父に挨拶《あいさつ》をしたあとで、すぐ小林の方を向いた。
「小林君だいぶ景気が好いようだね。立派な服を拵《こしら》えたじゃないか」
小林はホームスパンみたようなざらざらした地合《じあい》の背広《せびろ》を着ていた。いつもと違ってその洋袴《ズボン》の折目がまだ少しも崩《くず》れていないので、誰の眼にも仕立卸《したておろ》しとしか見えなかった。彼は変り色の靴下を後《うしろ》へ隠すようにして、津田の前に坐《すわ》り込んだ。
「へへ、冗談《じょうだん》云っちゃいけない。景気の好いのは君の事だ」
彼の新調はどこかのデパートメント・ストアの窓硝子《まどガラス》の中に飾ってある三《み》つ揃《ぞろい》に括《くく》りつけてあった正札を見つけて、その価段《ねだん》通りのものを彼が注文して拵えたのであった。
「これで君二十六円だから、ずいぶん安いものだろう。君
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