くように思われた。彼はその源因を想像した。他《ひと》の例にならって、自分のスリッパーを戸の前に脱ぎ捨《す》てておいたのが悪くはなかったろうかと考えた。なぜそれを浴室の中まで穿《は》き込まなかったのだろうかという後悔さえ萌《きざ》した。
しばらくして彼はまた意外な足音を今度は浴槽《よくそう》の外側に聞いた。それは彼が石蕗《つわ》の花を眺めた後《あと》、鵯鳥《ひよどり》の声を聴《き》いた前であった。彼の想像はすぐ前後の足音を結びつけた。風呂場を避けた前の足音の主が、わざと外へ出たのだという解釈が容易に彼に与えられた。するとたちまち女の声がした。しかしそれは足音と全く別な方角から来た。下から見上げた外部の様子によって考えると、崖《がけ》の上は幾坪かの平地《ひらち》で、その平地を前に控えた一棟《ひとむね》の建物が、風呂場の方を向いて建てられているらしく思われた。何しろ声はそっちの見当から来た。そうしてその主は、たしかに先刻《さっき》散歩の帰りに番頭と清子の話をした女であった。
昨夕湯気を抜くために隙《す》かされた庇《ひさし》の下の硝子戸《ガラスど》が今日は閉《た》て切られているので、彼女の言葉は明かに津田の耳に入らなかった。けれども語勢その他から推して、一事はたしかであった。彼女は崖《がけ》の上から崖の下へ向けて話しかけていた。だから順序を云えば、崖の下からも是非|受《う》け応《こた》えの挨拶《あいさつ》が出なければならないはずであった。ところが意外にもその方はまるで音沙汰《おとさた》なしで、互い違いに起る普通の会話はけっして聴かれなかった。しゃべる方はただ崖の上に限られていた。
その代り足音だけは先刻のようにとまらなかった。疑いもなく一人の女が庭下駄で不規則な石段を踏んで崖を上《のぼ》って行った。それが上り切ったと思う頃に、足を運ぶ女の裾《すそ》が硝子戸の上部の方に少し現われた。そうしてすぐ消えた。津田の眼に残った瞬間の印象は、ただうつくしい模様の翻《ひる》がえる様であった。彼は動き去ったその模様のうちに、昨夕階段の下から見たと同じ色を認めたような気がした。
百八十
室《へや》に帰って朝食《あさめし》の膳に着いた時、彼は給仕の下女と話した。
「浜のお客さんのいる所は、新らしい風呂場から見える崖の上だろう」
「ええ。あちらへ行って御覧になりました
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