しまわなければならないほど静かであった。その時彼の心を卒然として襲って来たものがあった。
「これは女だ。しかし下女ではない。ことによると……」
 不意にこう感づいた彼の前に、もしやと思ったその本人が容赦なく現われた時、今しがた受けたより何十倍か強烈な驚ろきに囚《とら》われた津田の足はたちまち立《た》ち竦《すく》んだ。眼は動かなかった。
 同じ作用が、それ以上強烈に清子をその場に抑えつけたらしかった。階上の板の間まで来てそこでぴたりととまった時の彼女は、津田にとって一種の絵であった。彼は忘れる事のできない印象の一つとして、それを後々《のちのち》まで自分の心に伝えた。
 彼女が何気なく上から眼を落したのと、そこに津田を認めたのとは、同時に似て実は同時でないように見えた。少くとも津田にはそう思われた。無心《むしん》が有心《ゆうしん》に変るまでにはある時がかかった。驚ろきの時、不可思議の時、疑いの時、それらを経過した後《あと》で、彼女は始めて棒立になった。横から肩を突けば、指一本の力でも、土で作った人形を倒すよりたやすく倒せそうな姿勢で、硬くなったまま棒立に立った。
 彼女は普通の湯治客《とうじきゃく》のする通り、寝しなに一風呂入って温《あたた》まるつもりと見えて、手に小型のタウエルを提《さ》げていた。それから津田と同じようにニッケル製の石鹸入《シャボンいれ》を裸《はだか》のまま持っていた。棒のように硬く立った彼女が、なぜそれを床の上へ落さなかったかは、後からその刹那《せつな》の光景を辿《たど》るたびに、いつでも彼の記憶中に顔を出したがる疑問であった。
 彼女の姿は先刻《さっき》風呂場で会った婦人ほど縦《ほしい》ままではなかった。けれどもこういう場所で、客同志が互いに黙認しあうだけの自由はすでに利用されていた。彼女は正式に幅の広い帯を結んでいなかった。赤だの青だの黄だの、いろいろの縞《しま》が綺麗《きれい》に通っている派手《はで》な伊達巻《だてまき》を、むしろずるずるに巻きつけたままであった。寝巻《ねまき》の下に重ねた長襦袢《ながじゅばん》の色が、薄い羅紗製《らしゃせい》の上靴《スリッパー》を突《つっ》かけた素足《すあし》の甲を被《おお》っていた。
 清子の身体《からだ》が硬くなると共に、顔の筋肉も硬くなった。そうして両方の頬と額の色が見る見るうちに蒼白《あおじろ》く変って
前へ 次へ
全373ページ中345ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング