とくに直立していた。したがって彼の顔、顔ばかりでなく彼の肩も胴も腰も、彼と同じ平面に足を置いて、彼と向き合ったままで映った。彼は相手の自分である事に気がついた後でも、なお鏡から眼を放す事ができなかった。湯上りの彼の血色はむしろ蒼《あお》かった。彼にはその意味が解《げ》せなかった。久しく刈込《かりこみ》を怠った髪は乱れたままで頭に生《お》い被《かぶ》さっていた。風呂で濡《ぬ》らしたばかりの色が漆《うるし》のように光った。なぜだかそれが彼の眼には暴風雨に荒らされた後の庭先らしく思えた。
 彼は眼鼻立の整った好男子であった。顔の肌理《きめ》も男としてはもったいないくらい濃《こまや》かに出来上っていた。彼はいつでもそこに自信をもっていた。鏡に対する結果としてはこの自信を確かめる場合ばかりが彼の記憶に残っていた。だからいつもと違った不満足な印象が鏡の中に現われた時に、彼は少し驚ろいた。これが自分だと認定する前に、これは自分の幽霊だという気がまず彼の心を襲った。凄《すご》くなった彼には、抵抗力があった。彼は眼を大きくして、なおの事自分の姿を見つめた。すぐ二足ばかり前へ出て鏡の前にある櫛《くし》を取上げた。それからわざと落ちついて綺麗に自分の髪を分けた。
 しかし彼の所作《しょさ》は櫛を投げ出すと共に尽きてしまった。彼は再び自分の室《へや》を探すもとの我に立ち返った。彼は洗面所と向い合せに付けられた階子段《はしごだん》を見上げた。そうしてその階子段には一種の特徴のある事を発見した。第一に、それは普通のものより幅が約三分一ほど広かった。第二に象が乗っても音がしまいと思われるくらい巌丈《がんじょう》にできていた。第三に尋常のものと違って、擬《まが》いの西洋館らしく、一面に仮漆《ニス》が塗《かか》っていた。
 胡乱《うろん》なうちにも、この階子段だけはけっして先刻《さっき》下りなかったというたしかな記憶が彼にあった。そこを上《のぼ》っても自分の室へは帰れないと気がついた彼は、もう一遍|後戻《あともど》りをする覚悟で、鏡から離れた身体《からだ》を横へ向け直した。

        百七十六

 するとその二階にある一室の障子《しょうじ》を開けて、開けた後《あと》をまた閉《た》て切《き》る音が聴《きこ》えた。階子段の構えから見ても、上にある室の数は一つや二つではないらしく思われるほど広い建
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