びた》だしいものだ。そんなら立つ前にもう一遍こっちから暇乞《いとまごい》に行くよ、いいかい」
「もうたくさんだ、来てくれなくっても」
「いや行く。でないと何だか気がすまないから」
「勝手にしろ。しかし僕はいないよ、来ても。明日《あした》から旅行するんだから」
「旅行? どこへ」
「少し静養の必要があるんでね」
「転地か、洒落《しゃれ》てるな」
「僕に云わせると、これも余裕の賜物《たまもの》だ。僕は君と違って飽《あ》くまでもこの余裕に感謝しなければならないんだ」
「飽くまでも僕の注意を無意味にして見せるという気なんだね」
「正直のところを云えば、まあそこいらだろうよ」
「よろしい、どっちが勝つかまあ見ていろ。小林に啓発《けいはつ》されるよりも、事実その物に戒飭《かいしょく》される方が、遥《はる》かに覿面《てきめん》で切実でいいだろう」
これが別れる時二人の間に起った問答であった。しかしそれは宵《よい》から持ち越した悪感情、津田が小林に対して日暮以来貯蔵して来た悪感情、の発現に過ぎなかった。これで幾分か溜飲《りゅういん》が下りたような気のした津田には、相手の口から出た最後の言葉などを考える余地がなかった。彼は理非の如何《いかん》に関わらず、意地にも小林ごときものの思想なり議論なりを、切って棄《す》てなければならなかった。一人になった彼は、電車の中ですぐ温泉場の様子などを想像に描き始めた。
明《あく》る朝《あさ》は風が吹いた。その風が疎《まば》らな雨の糸を筋違《すじかい》に地面の上へ運んで来た。
「厄介《やっかい》だな」
時間通りに起きた津田は、縁鼻《えんばな》から空を見上げて眉を寄せた。空には雲があった。そうしてその雲は眼に見える風のように断えず動いていた。
「ことによると、お午《ひる》ぐらいから晴れるかも知れないわね」
お延は既定の計画を遂行する方に賛成するらしい言葉つきを見せた。
「だって一日|後《おく》れると一日|徒為《むだ》になるだけですもの。早く行って早く帰って来ていただく方がいいわ」
「おれもそのつもりだ」
冷たい雨によって乱されなかった夫婦間の取極《とりきめ》は、出立間際になって、始めて少しの行違を生じた。箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》から自分の衣裳《いしょう》を取り出したお延は、それを夫の洋服と並べて渋紙の上へ置いた。津田は気がついた。
「お
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