そりゃ……。細君は何と云ったね」
 津田は黙って懐《ふところ》へ手を入れた。小林はその所作《しょさ》を眺めながら、わざとそれを止《や》めさせるように追加した。
「ははあ。弁護の必要があったんだな。どうも変だと思ったら」
 津田は懐へ入れた手を、元の通り外へ出した。「お延の返事はここにある」といって、綺麗《きれい》に持って来た金を彼に渡すつもりでいた彼は躊躇《ちゅうちょ》した。その代り話頭《わとう》を前へ押し戻した。
「やはり人間は境遇次第だね」
「僕は余裕次第だというつもりだ」
 津田は逆《さか》らわなかった。
「そうさ余裕次第とも云えるね」
「僕は生れてから今日《きょう》までぎりぎり決着の生活をして来たんだ。まるで余裕というものを知らず生きて来た僕が、贅沢三昧《ぜいたくざんまい》わがまま三昧に育った人とどう違うと君は思う」
 津田は薄笑いをした。小林は真面目《まじめ》であった。
「考えるまでもなくここにいるじゃないか。君と僕さ。二人を見較《みくら》べればすぐ解るだろう、余裕と切迫で代表された生活の結果は」
 津田は心の中《うち》でその幾分を点頭《うなず》いた。けれども今さらそんな不平を聴いたって仕方がないと思っているところへ後が来た。
「それでどうだ。僕は始終《しじゅう》君に軽蔑《けいべつ》される、君ばかりじゃない、君の細君からも、誰からも軽蔑される。――いや待ちたまえまだいう事があるんだ。――それは事実さ、君も承知、僕も承知の事実さ。すべて先刻《さっき》云った通りさ。だが君にも君の細君にもまだ解らない事がここに一つあるんだ。もちろん今さらそれを君に話したってお互いの位地《いち》が変る訳でもないんだから仕方がないようなものの、これから朝鮮へ行けば、僕はもう生きて再び君に会う折がないかも知れないから……」
 小林はここまで来て少し昂奮《こうふん》したような気色《けしき》を見せたが、すぐその後から「いや僕の事だから、行って見ると朝鮮も案外なので、厭《いや》になってまたすぐ帰って来ないとも限らないが」と正直なところを付け加えたので、津田は思わず笑い出してしまった。小林自身もいったん頓挫《とんざ》してからまた出直した。
「まあ未来の生活上君の参考にならないとも限らないから聴きたまえ。実を云うと、君が僕を軽蔑している通りに、僕も君を軽蔑しているんだ」
「そりゃ解ってるよ」

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