を呼んだ。
「ちょっと二階にある紙入を取ってくれ。御前の蟇口《がまぐち》でも好い」
「何《なん》になさるの」
お延には夫の意味がまるで解らなかった。
「何でもいいから早く出してくれ」
彼はお延から受取った蟇口を懐中《ふところ》へ放《ほう》り込《こ》んだまま、すぐ大通りの方へ引き返した。そうして電車に乗った。
彼がかなり大きな紙包を抱えてまた戻って来たのは、それから約三四十分|後《ご》で、もう午《ひる》に間もない頃であった。
「あの蟇口の中にゃ少しっきゃ入っていないんだね。もう少しあるのかと思ったら」
津田はそう云いながら腋《わき》に抱えた包みを茶の間の畳の上へ放り出した。
「足りなくって?」
お延は細かい事にまで気を遣《つか》わないではいられないという眼つきを夫の上に向けた。
「いや足りないというほどでもないがね」
「だけど何をお買いになるかあたしちっとも解らないんですもの。もしかすると髪結床《かみいどこ》かと思ったけれども」
津田は二カ月以上手を入れない自分の頭に気がついた。永く髪を刈らないと、心持|番《ばん》の小さい彼の帽子が、被《かぶ》るたんびに少しずつきしんで来るようだという、つい昨日《きのう》の朝受けた新らしい感じまで思い出した。
「それにあんまり急いでいらっしったもんだから、つい二階まで取りに行けなかったのよ」
「実はおれの紙入の中にも、そうたくさん入ってる訳じゃないんだから、まあどっちにしたって大した変りはないんだがね」
彼は蟇口の悪口《わるくち》ばかり云えた義理でもなかった。
お延は手早く包紙を解いて、中から紅茶の缶《かん》と、麺麭《パン》と牛酪《バタ》を取り出した。
「おやおやこれ召《め》しゃがるの。そんなら時《とき》を取りにおやりになればいいのに」
「なにあいつじゃ分らない。何を買って来るか知れやしない」
やがて好い香《におい》のするトーストと濃いけむりを立てるウーロン茶とがお延の手で用意された。
朝飯《あさめし》とも午飯《ひるめし》とも片のつかない、極《きわ》めて単純な西洋流の食事を済ました後で、津田は独《ひと》りごとのように云った。
「今日は病気の報知かたがた無沙汰見舞《ぶさたみまい》に、ちょっと朝の内藤井の叔父《おじ》の所まで行って来《き》ようと思ってたのに、とうとう遅くなっちまった」
彼の意味は仕方がないから午後にこ
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