あ》て篏《は》めて考えた。すると暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押しやったり、前に進むべき彼を後《うし》ろに引き戻したりするように思えた。しかも彼はついぞ今まで自分の行動について他《ひと》から牽制《けんせい》を受けた覚《おぼえ》がなかった。する事はみんな自分の力でし、言う事はことごとく自分の力で言ったに相違なかった。
「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが貰《もら》おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」
 彼は電車を降りて考えながら宅《うち》の方へ歩いて行った。

        三

 角《かど》を曲って細い小路《こうじ》へ這入《はい》った時、津田はわが門前に立っている細君の姿を認めた。その細君はこっちを見ていた。しかし津田の影が曲り角から出るや否や、すぐ正面の方へ向き直った。そうして白い繊《ほそ》い手を額の所へ翳《かざ》すようにあてがって何か見上げる風をした。彼女は津田が自分のすぐ傍《そば》へ寄って来るまでその態度を改めなかった。
「おい何を見ているんだ」
 細君は津田の声を聞くとさも驚ろいたように急にこっちをふり向いた。
「ああ吃驚《びっくり》した。――御帰り遊ばせ」
 同時に細君は自分のもっているあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫の上に注《そそ》ぎかけた。それから心持腰を曲《かが》めて軽い会釈《えしゃく》をした。
 半《なか》ば細君の嬌態《きょうたい》に応じようとした津田は半《なか》ば逡巡《しゅんじゅん》して立ち留まった。
「そんな所に立って何をしているんだ」
「待ってたのよ。御帰りを」
「だって何か一生懸命に見ていたじゃないか」
「ええ。あれ雀《すずめ》よ。雀が御向うの宅《うち》の二階の庇《ひさし》に巣を食ってるんでしょう」
 津田はちょっと向うの宅の屋根を見上げた。しかしそこには雀らしいものの影も見えなかった。細君はすぐ手を夫の前に出した。
「何だい」
「洋杖《ステッキ》」
 津田は始めて気がついたように自分の持っている洋杖を細君に渡した。それを受取
前へ 次へ
全373ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング