ね」
「まあないね」と云い放った津田は、わざとそっぽを向いた。
「ないかね。どこかにありそうなもんだがな」
「ないよ。近頃は不景気だから」
「君はどうだい。世間はとにかく、君だけはいつも景気が好さそうじゃないか」
「馬鹿云うな」
 岡本から貰った小切手も、お秀の置いて行った紙包も、みんなお延に渡してしまった後《あと》の彼の財布は空《から》と同じ事であった。よしそれが手元にあったにしたところで、彼はこの場合小林のために金銭上の犠牲を払う気は起らなかった。第一事がそこまで切迫して来ない限り、彼は相談に応ずる必要を毫《ごう》も認めなかった。
 不思議に小林の方でも、それ以上津田を押さなかった。その代り突然妙なところへ話を切り出して彼を驚ろかした。
 その朝藤井へ行った彼は、そこで例《いつ》もするように昼飯の馳走《ちそう》になって、長い時間を原稿の整理で過ごしているうちに、玄関の格子《こうし》が開《あ》いたので、ひょいと自分で取次に出た。そうしてそこに偶然お秀の姿を見出《みいだ》したのである。
 小林の話をそこまで聴いた時、津田は思わず腹の中で「畜生ッ先廻りをしたな」と叫んだ。しかしただそれだけではすまなかった。小林の頭にはまだ津田を驚ろかせる材料が残っていた。

        百十九

 しかし彼の驚ろかし方には、また彼一流の順序があった。彼は一番始めにこんな事を云って津田に調戯《からか》った。
「兄妹喧嘩《きょうだいげんか》をしたんだって云うじゃないか。先生も奥さんも、お秀さんにしゃべりつけられて弱ってたぜ」
「君はまた傍《そば》でそれを聴《き》いていたのか」
 小林は苦笑しながら頭を掻《か》いた。
「なに聴こうと思って聴いた訳でもないがね。まあ天然自然《てんねんしぜん》耳へ入ったようなものだ。何しろしゃべる人がお秀さんで、しゃべらせる人が先生だからな」
 お秀にはどこか片意地で一本調子な趣《おもむき》があった。それに一種の刺戟《しげき》が加わると、平生の落ちつきが全く無くなって、不断と打って変った猛烈さをひょっくり出現させるところに、津田とはまるで違った特色があった。叔父はまた叔父で、何でも構わず底の底まで突きとめなければ承知のできない男であった。単に言葉の上だけでもいいから、前後一貫して俗にいう辻褄《つじつま》が合う最後まで行きたいというのが、こういう場合相手に対
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