》いた。少くともさほど苦《く》にならなかった。耳に入れた刹那《せつな》に起った昂奮《こうふん》の記憶さえ、再び呼び戻す必要を認めなかった。
「もし万一の事があるにしても、自分の方は大丈夫だ」
夫に対するこういう自信さえ、その時のお延の腹にはできた。したがって、いざという場合に、どうでも臨機の所置をつけて見せるという余裕があった。相手を片づけるぐらいの事なら訳はないという気持も手伝った。
「相手? どんな相手ですか」と訊《き》かれたら、お延は何と答えただろう。それは朧気《おぼろげ》に薄墨《うすずみ》で描かれた相手であった。そうして女であった。そうして津田の愛を自分から奪う人であった。お延はそれ以外に何《なん》にも知らなかった。しかしどこかにこの相手が潜んでいるとは思えた。お秀と自分ら夫婦の間に起った波瀾《はらん》が、ああまで際《きわ》どくならずにすんだなら、お延は行《いき》がかり上《じょう》、是非共津田の腹のなかにいるこの相手を、遠くから探《さぐ》らなければならない順序だったのである。
お延はそのプログラムを狂わせた自分を顧みて、むしろ幸福だと思った。気がかりを後へ繰り越すのが辛《つら》くて耐《たま》らないとはけっして考えなかった。それよりもこの機会を緊張できるだけ緊張させて、親切な今の自分を、強く夫の頭の中に叩《たた》き込んでおく方が得策だと思案した。
こう決心するや否や彼女は嘘《うそ》を吐《つ》いた。それは些細《ささい》の嘘であった。けれども今の場合に、夫を物質的と精神的の両面に亘《わた》って、窮地から救い出したものは、自分が持って来た小切手だという事を、深く信じて疑わなかった彼女には、むしろ重大な意味をもっていた。
その時津田は小切手を取り上げて、再びそれを眺めていた。そこに書いてある額は彼の要求するものよりかえって多かった。しかしそれを問題にする前、彼はお延に云った。
「お延ありがとう。お蔭《かげ》で助かったよ」
お延の嘘はこの感謝の言葉の後に随《つ》いて、すぐ彼女の口を滑《すべ》って出てしまった。
「昨日《きのう》岡本へ行ったのは、それを叔父さんから貰《もら》うためなのよ」
津田は案外な顔をした。岡本へ金策をしに行って来いと夫から頼まれた時、それを断然|跳《は》ねつけたものは、この小切手を持って来たお延自身であった。一週間と経《た》たないうちに、
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