なかった。たとい自分に何とも云わないまでも、お秀には溜飲《りゅういん》の下《さが》るような事を一口でいいから云ってくれればいいのにと、腹の中で思った。
先刻《さっき》から二人の様子を見ていたそのお秀はこの時急に「兄さん」と呼んだ。そうして懐《ふところ》から綺麗な女持の紙入を出した。
「兄さん、あたし持って来たものをここへ置いて行きます」
彼女は紙入の中から白紙《はくし》で包んだものを抜いて小切手の傍《そば》へ置いた。
「こうしておけばそれでいいでしょう」
津田に話しかけたお秀は暗《あん》にお延の返事を待ち受けるらしかった。お延はすぐ応じた。
「秀子さんそれじゃすみませんから、どうぞそんな心配はしないでおいて下さい。こっちでできないうちは、ともかくもですけれども、もう間に合ったんですから」
「だけどそれじゃあたしの方がまた心持が悪いのよ。こうしてせっかく包んでまで持って来たんですから、どうかそんな事を云わずに受取っておいて下さいよ」
二人は譲り合った。同じような問答を繰り返し始めた。津田はまた辛防強《しんぼうづよ》くいつまでもそれを聴《き》いていた。しまいに二人はとうとう兄に向わなければならなくなった。
「兄さん取っといて下さい」
「あなたいただいてもよくって」
津田はにやにやと笑った。
「お秀妙だね。先刻はあんなに強硬だったのに、今度はまた馬鹿に安っぽく貰わせようとするんだね。いったいどっちが本当なんだい」
お秀は屹《きっ》となった。
「どっちも本当です」
この答は津田に突然であった。そうしてその強い調子が、どこまでも冷笑的に構えようとする彼の機鋒《きほう》を挫《くじ》いた。お延にはなおさらであった。彼女は驚ろいてお秀を見た。その顔は先刻と同じように火熱《ほて》っていた。けれども涼しい彼女の眼に宿る光りは、ただの怒りばかりではなかった。口惜《くや》しいとか無念だとかいう敵意のほかに、まだ認めなければならない或物がそこに陽炎《かげろ》った。しかしそれが何であるかは、彼女の口を通して聴《き》くよりほかに途《みち》がなかった。二人は惹《ひ》きつけられた。今まで持続して来た心の態度に角度の転換が必要になった。彼らは遮《さえ》ぎる事なしに、その輝やきの説明を、彼女の言葉から聴こうとした。彼らの予期と同時に、その言葉はお秀の口を衝《つ》いて出た。
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