ない art を弄《ろう》している事がたくさんある。即ちねむいのに、睡くないようなふりをするなどはその一例です。かく art は恐ろしい。われわれにとっては art は二の次《つぎ》で、人格が第一なのです。孔子様《こうしさま》でなければ人格がない、なんていうのじゃない。人格といったってえらいという事でもなければ、偉くないという事でもない。個人の思想なり観念なりを中心として考えるということである。
一口にいえば、文芸家の仕事の本体即ち essence は人間であって、他のものは附属品装飾品である。
この見地より世の中を見わたせば面白いものです。こういうのは私一人かも知れませんが、世の中は自分を中心としなければいけない。尤《もっと》も私は親が生んだので、親はまたその親が生んだのですから、私は唯一人でぽつりと木の股《また》から生れた訳ではない。そこでこういう問題が出て来る。人間は自分を通じて先祖を後世《こうせい》に伝える方便として生きているのか、または自分その者を後世に伝えるために生きているのか。これはどっちでもいい事ですけれども、とりようでは二様にとれる。親が死んだからその代理に生きているともとれるし、そうでなくて己《おのれ》は自分が生きているんで、親はこの己を生むための方便だ、自分が消えると気の毒だから、子に伝えてやる、という事に考えても差支《さしつかえ》ない。この論法からいうと、芸術家が昔の芸術を後世に伝えるために生きているというのも、不見識《ふけんしき》ではあるが、やっぱり必要でしょう。ことに旧《きゅう》芝居や御能《おのう》なんかはいい例です。絵画にもそれがある。私は狩野元信《かのうもとのぶ》のために生きているので、決して私のためには生きているのではないと看板をかける人もたくさんある。こういうのは身を殺して仁《じん》をなすというものでしょう。しかし personality の論法で行くと、これは問題にならない。こんな人はとりのけて、ほんとに自覚したらどうだろう。即ち personality から出立《しゅったつ》しようとする、狩野のために生きるのをよして自分のために生きようとする事にしたらどうだろう。世の中には全く同じ事は決して再び起らない。science ではどうだか知らないけれども、精神界では全く同じものが二つは来ない。故にいくら旧様《きゅうよう》を守ろうとしても、全然|旧《きゅう》には復らない。なお他の一つは旧にかえるのではなく新しい departure をする。これらによって essential な personality を発揮する事ができる。
導体的の文芸家美術家も、必要かも知れないが、人間の本分として、凡《すべ》ての人は自覚しなければならない。此所《ここ》が大切な所で充分に説明しなければいけないんですが、今日は時間がないからこれでやめます。
私のいうた事は、あなた方《がた》と私どもとの職業の違いから出立《しゅったつ》して、私どもの方の事を精《くわ》しくいったのでありますけれども、同時にまたあなた方の方にも或程度までは応用が利くかと思います。あなた方の職業の方面において幾分か参考になる事がありはしないかと思うのです。尤《もっと》も文芸部の会ですから応用が利かなくっても、威張《いば》ってそういう権利があります。しかし個人としてなり職業としてなり、あなた方の御参考になれば、私は非常に嬉しいのであります。――それだけです。
[#地から2字上げ](東京高等工業学校校友会雑誌所載の略記による)
[#地付き]――大正三年一月十七日東京高等工業学校において――
底本:「漱石文明論集」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年10月16日第1刷発行
1998(平成10)年7月24日第26刷発行
※底本で、表題に続いて配置されていた講演の日時と場所に関する情報は、ファイル末に地付きで置きました。
入力:柴田卓治
校正:木本敦子
1999年9月2日公開
2004年2月28日修正
青空文庫作成ファイル:
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