。ただ大変高くできていた船と見えて、身体は船を離れたけれども、足は容易に水に着かない。しかし捕《つか》まえるものがないから、しだいしだいに水に近づいて来る。いくら足を縮《ちぢ》めても近づいて来る。水の色は黒かった。
そのうち船は例の通り黒い煙《けぶり》を吐いて、通り過ぎてしまった。自分はどこへ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事ができずに、無限の後悔と恐怖とを抱《いだ》いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。
第八夜
床屋の敷居を跨《また》いだら、白い着物を着てかたまっていた三四人が、一度にいらっしゃいと云った。
真中に立って見廻すと、四角な部屋である。窓が二方に開《あ》いて、残る二方に鏡が懸《かか》っている。鏡の数を勘定《かんじょう》したら六つあった。
自分はその一つの前へ来て腰をおろした。すると御尻《おしり》がぶくりと云った。よほど坐り心地《ごこち》が好くできた椅子である。鏡には自分の顔が立派に映った。顔の後《うしろ》には窓が見えた。それから帳場格子《ちょうばごうし》が斜《はす》に見えた。格子の中に
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