込まなければ、豚《ぶた》に舐《な》められますが好うござんすかと聞いた。庄太郎は豚と雲右衛門が大嫌《だいきらい》だった。けれども命には易《か》えられないと思って、やっぱり飛び込むのを見合せていた。ところへ豚が一匹鼻を鳴らして来た。庄太郎は仕方なしに、持っていた細い檳榔樹《びんろうじゅ》の洋杖《ステッキ》で、豚の鼻頭《はなづら》を打《ぶ》った。豚はぐうと云いながら、ころりと引《ひ》っ繰《く》り返《かえ》って、絶壁の下へ落ちて行った。庄太郎はほっと一《ひ》と息接《いきつ》いでいるとまた一匹の豚が大きな鼻を庄太郎に擦《す》りつけに来た。庄太郎はやむをえずまた洋杖を振り上げた。豚はぐうと鳴いてまた真逆様《まっさかさま》に穴の底へ転《ころ》げ込んだ。するとまた一匹あらわれた。この時庄太郎はふと気がついて、向うを見ると、遥《はるか》の青草原の尽きる辺《あたり》から幾万匹か数え切れぬ豚が、群《むれ》をなして一直線に、この絶壁の上に立っている庄太郎を目懸《めが》けて鼻を鳴らしてくる。庄太郎は心《しん》から恐縮した。けれども仕方がないから、近寄ってくる豚の鼻頭を、一つ一つ丁寧《ていねい》に檳榔樹の洋杖で打っていた。不思議な事に洋杖が鼻へ触《さわ》りさえすれば豚はころりと谷の底へ落ちて行く。覗《のぞ》いて見ると底の見えない絶壁を、逆《さか》さになった豚が行列して落ちて行く。自分がこのくらい多くの豚を谷へ落したかと思うと、庄太郎は我ながら怖《こわ》くなった。けれども豚は続々くる。黒雲に足が生《は》えて、青草を踏み分けるような勢いで無尽蔵《むじんぞう》に鼻を鳴らしてくる。
庄太郎は必死の勇をふるって、豚の鼻頭を七日《なのか》六晩叩《むばんたた》いた。けれども、とうとう精根が尽きて、手が蒟蒻《こんにゃく》のように弱って、しまいに豚に舐《な》められてしまった。そうして絶壁の上へ倒れた。
健さんは、庄太郎の話をここまでして、だからあんまり女を見るのは善《よ》くないよと云った。自分ももっともだと思った。けれども健さんは庄太郎のパナマの帽子が貰いたいと云っていた。
庄太郎は助かるまい。パナマは健さんのものだろう。
底本:「夏目漱石全集10巻」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年7月26日第1刷発行
1996(平成8)年7月15日第5刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏
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