掠《かす》めて、空濶《くうかつ》の中《うち》に消えてしまった。その迹《あと》を見上げると、遥《はるか》なる大きい鏡である。
 その時我々はもう頂《いただき》近くにいた。ここいらへも砲丸《たま》が飛んで来たんでしょうなと聞くと、ここでやられたものは、多く味方の砲丸自身のためです。それも砲丸自身のためと云うより、砲丸が山へ当って、石の砕けたのを跳《は》ね返《かえ》したためです。こう云う傾斜のはなはだしい所ですから、いざと云う時に、すぐ遠くから駆《か》け寄せて敵を追《お》い退《の》ける訳に行きませんので、みんなこう云うところへ平たくなって噛《かじ》りついているのであります。そうして味方の砲丸が眼の前へ落ちて、一度に砂煙《すなけむり》が揚《あ》がるとその虚《きょ》に乗じて一間か二間ずつ這《は》い上がるのですから、勢い砂煙に交《まじ》る石のために身体中|創《きず》だらけになるのです。と市川君は詳しい説明を与えられた。
 味方の砲弾《たま》でやられなければ、勝負のつかないような烈《はげ》しい戦《いくさ》は苛過《つらす》ぎると思いながら、天辺《てっぺん》まで上《のぼ》った。そこには道標《どうひょう》に似た御影《みかげ》の角柱《かくちゅう》が立っていた。その右を少しだらだらと降りたところが新《あらた》に土を掘返したごとく白茶《しらちゃ》けて見える。不思議な事にはところどころが黒ずんで色が変っている。これが石油を襤褸《ぼろ》に浸《し》み込《こ》まして、火を着けて、下から放《ほう》り抛《な》げたところですと、市川君はわざわざ崩《くず》れた土饅頭《どまんじゅう》の上まで降りて来た。その時|遥《はるか》下の方を見渡して、山やら、谷やら、畠《はたけ》やら、一々実地の地形について、当時の日本軍がどう云う径路《けいろ》をとって、ここへじりじり攻め寄せたかをついでながら物語られた。不幸にして、二百三高地の上までは来たようなものの、どっちが東でどっちが西か、方角がまるで分らない。ただ広々として、山の頭がいくつとなく起伏している一角に、藍色《あいいろ》の海が二カ処ほど平《ひら》たく見えるだけである。余はただ朗かな空の下に立って、市川君の指さす方《かた》を眺《なが》めていた。
 自分でここへ攻め寄せて来た経験をもっている市川君の話は、はなはだ詳しいものであった。市川君の云うところによると、六月から十二月まで屋根の下に寝た事は一度もなかったそうである。あるときは水の溜《たま》った溝《みぞ》の中に腰から下を濡《ぬ》らして何時間でも唇《くちびる》の色を変えて竦《すく》んでいた。食事は鉄砲を打たない時を見計《みはから》って、いつでも構わず口中に運んだ。その食事さえ雨が降って車の輪が泥の中に埋《うま》って、馬の力ではどうしても運搬《うんぱん》ができなかった事もある。今あんな真似《まね》をすれば一週間|経《た》たないうちに大病人になるにきまっていますが、医者に聞いて見ると、戦争のときは身体《からだ》の組織《そしょく》がしばらくの間に変って、全く犬や猫と同様になるんだそうですと笑っていた。市川君は今旅順の巡査部長を勤めている。

        二十八

 旅順の港は袋の口を括《くく》ったように狭くなって外洋に続いている。袋の中はいつ見ても油を注《さ》したと思われるほど平らかである。始めてこの色を遠くから眺めたときは嬉しかった。しかし水の光が強く照り返して、湾内がただ一枚に堅く見えたので、あの上を舟で漕《こ》ぎ廻って見たいと云う気は少しも起らなかった。魚を捕《と》る料簡《りょうけん》は無論無かった。露西亜《ロシア》の軍艦がどこで沈没したろうかなどと思い浮かべる暇も出なかった。ただ頭へぴかぴかと、平たい研《と》ぎ澄《すま》したものが映った。
 余は大和《やまと》ホテルの二階からもこの晴やかな色を眺めた。ホテルの玄関を出たり這入《はい》ったりするときにもこの鋭い光の断片に眼を何度となく射られた。それでも単に烈《はげ》しい奇麗《きれい》な色と光だなと感ずるだけであった。佐藤から港内を見せてやるからと案内されるまでは、とうてい港内は人間の這入るところではないくらいに、頭の底で、無意識ながら分別していたらしい。
 さあ行くんだと催促された時は、なるほど旅順に来る以上、催促されなければならんはずの場処へ行くんだと思った。今日の同勢は朝大連から来た田中君を入れて五人である。港務部を這入《はい》るときに水兵がこの五人に礼をした。兵隊に礼をされたのは生れてこれが初《はじめ》てであった。佐藤が真先に中へ這入って、やがて出て来たから、もう舟に乗れるのかと思ったら、おい這入れ這入れという。我々は石垣の上に立っていた。足元にはすぐ小蒸気《こじょうき》が繋《つな》いである。我々の足は、家の方より、むしろ水の方に向いていた。
 十分の後《のち》五人はまた河野中佐《こうのちゅうさ》といっしょに家を出てすぐ小蒸気に移った。海軍の将校が下士や水兵を使うのは実に簡潔|明瞭《めいりょう》である。船は河野中佐の云いなり次第の速力で、思う通りの方角へ出た。港の入口ではここかしこの潜水器へ船の上から空気を送っている。船の数は十|艘《そう》近くあった。みんな波に揺られて上《あが》ったり下《さが》ったりしている。我々五人のも固《もと》より平《たいら》ではない。鏡のように見えた湾の入口がこうまで動いているとは思いがけなかった。波で身体の調子が浮いたり沈んだりする上に、強い日が頭から射《い》りつけるので、少し胸が悪くなった。河野さんは軍人だから、そんな事に気のつくはずがない。ああ云う喞筒《ポンプ》で空気を送るのは旧式でね、時々潜水夫を殺してしまいますよと講釈をしている。田中君はふうんとさも感心したらしく聞いている。
 河野さんの話によると、日露戦争の当時、この附近に沈んだ船は何艘《なんそう》あるか分らない。日本人が好んで自分で沈めに来た船だけでもよほどの数になる。戦争後何年かの今日《こんにち》いまだに引揚げ切れないところを見てもおおよその見当はつく。器械水雷なぞになるとこの近海に三千も装置したのだそうだ。
 じゃ今でも危険ですねと聞くと、危険ですともと答えられたのでなるほどそんなものかと思った。沈んだ船を引揚げる方法も聞いて見たが、これは委《くわ》しく覚えている、百キロぐらいな爆発薬で船体を部分部分に切り壊して、それを六|吋《インチ》の針金で結《ゆわ》えて、そうして六百|噸《トン》のブイアンシーのある船を、水で重くした上、干潮《かんちょう》に乗じて作事《さくじ》をしておいて、それから満潮の勢いと喞筒の力で引き揚げるのだそうだ。しかし我々が眺めていた時は、いつまで立っても、何も揚って来そうになかった。
 港の入口は左右から続いた山を掘り割ったように岸が聳《そび》えていて、その上に砲台がある。あすこから探海灯《たんかいとう》で照らされると、一番困る。まるで方角も何も分らなくなってしまうと河野さんが高い処を指さした。
 やがて小蒸気は煙りを逆に吐いて港内に引返した。戦闘艦が並んで撃沈されたという前を横に曲ってまた元の石垣の下《もと》へ着いた。向う岸には戦利品のブイや錨《いかり》がたくさん並んでいる。あれで約三十万円の価格ですと河野さんが云った。門の出口には防材《ぼうざい》の標本が一本寝かしてあった。その先から尖《とが》った剣《けん》のようなものが出ていた。

        二十九

 風呂を注文しておいたら、用意ができたと見えて、向うの部屋で、湯の迸《ほと》ばしる音が盛《さかん》にする。靴を脱いで、スリッパアをつっかけて、戸を開けに掛ると、まだ廊下に出ないうちに給仕がやって来た。田中さんがいっしょにスキ焼を食べにいらっしゃいませんかと云う案内である。スキ焼の名はこの際両人に取って珍らしい響がした。けれども白状すると、毫《ごう》も食う気にはならなかった。スキ焼って家《うち》で拵《こしら》えるのかいと尋ねると、いえ近所の料理屋ですと云う。近所の料理屋はスキ焼よりも一層不思議な言葉である。ホテルの窓から往来を一日眺めていたって、通行人は滅多《めった》に眼に触れないところである。外へ出て広い路を岡の上まで見通すと、左右の家《うち》は数えるほどしか並んでいない。そうしてそれがことごとく西洋館である。しかも三分の一は半建《はんだて》のまま雨露《あめつゆ》に曝《さら》されている。他の三分の一は空家《あきや》である。残る三分の一には無論人が住んでいる。けれどもその主人はたいてい月給を取って衣食するものとしか受け取れない構《かまえ》である。新市街という名はあるにしても、その実《じつ》は閑静な寂《さび》れた屋敷町に過ぎない。その屋敷のどこにスキ焼を食わす家があるかと思うと、一種小説に近い心持が起る。
 ただ、昼の疲れを忘れるため、胃の不安を逃《のが》れるため、早く湯に入って、レースの蚊帳《かや》の中で、穏かに寝たかった。そこで給仕に、今湯に這入りかけているからね、少し時間が取れるかも知れないから、田中さんに、どうか御先《おさき》へと云ってくれと頼んだ。すると傍《そば》にいる橋本が例のごとく、そりゃいかんよと云い出した。せっかく誘ってくれるものを、そんな挨拶《あいさつ》をする法はないぜと、また長い説教が始まりそうで恐ろしくなったので、仕方がないからうんよしよし、それじゃあね、今湯に這入《はい》っていますから、すぐ行きますってそう云ってくれ、よく云うんだよ、分ったかねと念を押してすぐ風呂に飛込んだ。
 そうして、少しも弱った顔を見せずにみんなと連れ立って、ホテルを出た。空はよく晴れて、星が遠くに見える晩であったが、月がないので往来は暗かった。危《あぶ》のうございますから御案内を致しましょうと云って、ホテルの小僧がついて来た。草の生えた四角な空地《あきち》を横切って、瓦斯《ガス》も電気もない所を、茫漠《ぼうばく》と二丁ほど来ると、門の奥から急に強い光が射した。玄関に女が二三人出ている。我々の来るのを待っていたような挨拶をした。座敷は畳が敷いて胡坐《あぐら》がかけるようになっていた。窓を見ると、壁の厚さが一尺ほどあったので、始めて普通の日本家屋でないと云う事が解った。窓の高さは畳から一尺に足りないから、足をかけると厚い壁の上に乗る事ができる。女が危のうございますと云った。外を覗《のぞ》いたら真闇《まっくら》に静かであった。
 女は三四人で、いずれも東京の言葉を使わなかった。田中君はわざと名古屋訛《なごやなまり》を真似《まね》て調戯《からか》っていた。女は御上手だ事とか、御上手やなとか、何とか云って賞《ほ》めていた。ところが前触《まえぶれ》のスキ焼はなかなか出て来ない。酒を飲まないで、肴《さかな》を突っついて手持無沙汰《てもちぶさた》であった。スキ焼があらわれても、胃の加減で旨《うま》くも何ともなかった。天下に何が旨いってスキ焼ほど旨いものは無いと思うがねと田中君が云った。田中君はスキ焼の主唱者だけあって、大変食べた。傍《はた》で見ていて羨《うらや》ましいほど食べた。余はしようがないから畳の上に仰向《あおむき》に寝ていた。すると女の一人が枕を御貸し申しましょうかと云いながら、自分の膝《ひざ》を余の頭の傍《そば》へ持って来た。この枕では御気に入りますまいとか何とか弁じている。結構だから、もう少しこっちの方へ出してくれと頼んで、その女の膝の上に頭を乗せて寝ていた。不思議な事に、橋本も活動の余地がないものと見えて、余と同様の真似《まね》をして、向うの方に長くなっている。枕元では田中君が女を相手に碁石《ごいし》でキシャゴ弾《はじ》きをやって大騒ぎをしている。余があまり静《しずか》だものだから、膝を貸した女は眠ったのだと思って、顋《あご》の下をくすぐった。
 帰るときには、神《かみ》さんらしいものが、しきりに泊って行けと勧めた。門を出るとまた急に暗くなった。森閑《しんかん》として人の気合《けわい》のない往来をホテルまで、影のように歩いて来て、今までの派出《
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