や》していた。当時余は寒雀とはどんなものか知らなかった。けれども佐藤の頭のようなものが寒雀なんだろうと思って、いっしょになってやっぱり寒雀寒雀と調戯《からか》った。この渾名《あだな》を発明した男はその後技師になって今は北海道にいる。
 話が前後するようだが、旅順に来て十何年ぶりかに佐藤に逢って、例の頭を注意して見ると、不思議な事に、その頭には万遍《まんべん》なく綿密に毛が生えていた。もっとも黒いのばかりではなかった。近頃は正当|防禦《ぼうぎょ》のために、こう短く刈っているんだと云って、三分刈の濃い頭を笑いながら掻《か》いて見せた。
 旅順から二度目の電話がかかった翌日の朝、橋本と余は、この旧友に逢うため、また日露の戦跡を観《み》るため、大連から汽車に乗った。乗る時、是公が友熊《ともくま》によろしくと云った。是公は何か用事があったと見えて、国沢君と二人で停車場《ステーション》の構内を横切って妙な方角へ向いて歩いて行った。やがて二人の影は物に遮《さえ》ぎられて、汽車の窓から見えなくなった。そうして満洲に有名な高粱《こうりょう》の色が始めて眼底に映じ出した。汽車は広い野の中に出たのである。

        二十二

 おい旅順に着いたら久しぶりに日本流の宿屋へ泊ろうかと橋本に相談を掛けるとそうだな浴衣《ゆかた》を着てごろごろするのも好いねという同意である。橋本は新しく蒙古から帰ったので、しきりに支那宿に降参した話を始めた。その支那宿には、名は塞北《さいほく》に馳《は》せ、味《あじわい》は江南を圧すなどという広告の文字がべたべた壁に貼《は》りつけてあるそうだ。橋本はこう云う文句をたくさん手帳に控えている。ほかに使い路のない文句だものだから、汽車の中で、それを残らず余に読んで聞かせてしまった。二人は笑いながら日本流の奇麗《きれい》な宿屋を想像して旅順のプラットフォームに降りた。降りるとそこに馬車がある。我々の名前を聞くものがある。
 この馬車が民政署の馬車で、我々を尋ねてくれた人が、渡辺秘書《わたなべひしょ》であるという事を発見した時は両人ともだいぶ恐縮した。橋本を振り返ると相変らず鼻の先を反《そ》らして、台湾パナマだか何だかペコペコになった帽子を被《かぶ》っている。おい宿屋はどうするんだいと小さな声で聞くと、うんそうさなと云ったが、そのうち二人とも馬車へ乗らなければならない段になった。いったい橋本といっしょにあるくときは、何でも橋本が進んで始末をつけてくれる事に昔からきまっているんだからこの際もどうかするだろうと思って放っておいた。すると予想通、日本流の宿屋へ行くつもりで来たんですがと渡辺さんに相談し始めた。ところが渡辺さんはどうも御泊りになられるような日本の宿屋は一軒もありませんから、やっぱり大和《やまと》ホテルになさった方が好いでしょうと忠告している。
 やがて馬車は新市街の方へ向いて動き出した。二人は十五分の後《のち》ホテルの二階に導かれて、行き通いのできる室《へや》を二つ並べて取った。そこで革鞄《かばん》の中から刷毛《はけ》を出して塵《ちり》だらけの服を払ったあとで、しばらく休息のため安楽椅子に腰をおろして見ると、急に気がついたように四辺《あたり》が森閑《しんかん》としている。ホテルの中には一人も客がいないように見える。ホテルの外にもいっさい人が住んでいるようには思われない。開廊《ヴェランダ》へ出て往来を眺めると、往来はだいぶ広い。手摺《てすり》の真下にある人道の石の中から草が生えて、茎の長さが一尺余りになったのが二三本見える。日中だけれども虫の音《ね》が微《かす》かに聞える。隣は主《ぬし》のない家と見えて、締《し》め切った門やら戸やらに蔦《つた》が一面に絡《から》んでいる。往来を隔てて向うを見ると、ホテルよりは広い赤煉瓦《あかれんが》の家が一棟《ひとむね》ある。けれども煉瓦が積んであるだけで屋根も葺《ふ》いてなければ窓硝子《まどガラス》もついてない。足場に使った材木さえ処々に残っているくらいの半建《はんだて》である。淋しい事には、工事を中止してから何年になるか知らないが、何年になってもこのままの姿で、とうてい変る事はあるまいと云う感じが起る。そうしてその感じが家にも往来にも、美しい空にも、一面に充《み》ちている。余は開廊の手摺を掌《てのひら》で抑えながら、奥にいる橋本に、淋《さび》しいなあと云った。旅順の港は鏡のごとく暗緑に光った。港を囲む山はことごとく坊主であった。
 まるで廃墟《ルインス》だと思いながら、また室の中に這入《はい》ると、寝床には雪のような敷布《シート》がかかっている。床《ゆか》には柔《やわら》かい絨毯《じゅうたん》が敷いてある。豊かな安楽椅子が据《す》えてある。器物はことごとく新式である。いっさいが整っている。外と内とは全く反対である。満鉄の経営にかかるこのホテルは、固《もと》より算盤《そろばん》を取っての儲《もう》け仕事でないと云う事を思い出すまでは、どうしても矛盾の念が頭を離れなかった。
 食堂に下りて、窓の外に簇《むら》がる草花の香《におい》を嗅《か》ぎながら、橋本と二人静かに午餐《ごさん》の卓に着いたときは、機会があったら、ここへ来て一夏気楽に暮したいと思った。

        二十三

 旅順に着いた時汽車の窓から首を出したら、つい鼻の先の山の上に、円柱のような高い塔が見えた。それがあまり高過ぎるので、肩から先を前の方へ突き出して、窮屈に仰向《あおむ》かなくては頂点《てっぺん》まで見上げる訳に行かなかった。
 馬車が新市街を通り越してまたこの塔の真下に出た時に、これが白玉山《はくぎょくざん》で、あの上の高い塔が表忠塔だと説明してくれた。よく見ると高い灯台のような恰好《かっこう》である。二百何尺とかと云う話であった。この山の麓《ふもと》を通り越して、旧市街を抜けると、また山路にかかる。その登り口を少し右へ這入《はい》った所に、戦利品陳列所がある。佐藤は第一番にそれを見せるつもりで両人《ふたり》を引張って来た。
 陳列所は固《もと》より山の上の一軒家で、その山には樹《き》と名のつくほどの青いものが一本も茂っていないのだから、はなはだ淋《さび》しい。当時の戦争に従事したと云う中尉のA君がただ独《ひと》り番をしている。この尉官は陳列所に幾十種となく並べてある戦利品について、一々|叮嚀《ていねい》に説明の労を取ってくれるのみならず、両人を鶏冠山《けいかんざん》の上まで連れて行って、草も木もない高い所から、遥《はるか》の麓を指さしながら、自分の従軍当時の実歴譚《じつれきだん》をことごとく語って聞かせてくれた人である。始め佐藤から砲台案内を依頼したときには、今日はちと差支《さしつか》えがあるから四時頃までならと云う条件であったが、山の出鼻へ立って洋剣《サーベル》を鞭《むち》の代りにして、あちらこちらと方角を教える段になると、肝心《かんじん》の要事はまるでそっちのけにして、満洲の赤い日が、向うの山の頂《いただき》に、大きくなって近づくまで帰ろうとは云わなかった。もし忘れたんじゃ気の毒だと思って、こっちから注意すると、何ようございます、構いませんと断りながら、ますます講釈をしてくれる。あんまり不思議だから、全体何の御用事が御有りなのですかと、詮索《せんさく》がましからぬ程度に聞いて見ると、実は妻《さい》が病気でと云う返事である。さすが横着な両人も、この際だけは、それじゃ御迷惑でもせっかくだからついでにもう少し案内を願おうと云う気にもなれなかった。言葉は無論出なかった。長い日が山の途中で暮れて、電気の力を借りなければ人の顔が判然《はっきり》分らない頃になって、我々の馬車がようやく旧市街まで戻った時、中尉はある煉瓦塀《れんがべい》の所で、それじゃ私はここで失礼しますと挨拶《あいさつ》して、馬車から下りて、門の中へ急いで這入って行かれた。この煉瓦の塀を回《めぐ》らした一構《ひとかまえ》は病院であった。そうして中尉の妻君はこの病院の一室に寝ていたのである。
 これほど世話になり、面倒を掛けた人の名前を忘れるのははなはだすまん事だが、どうしても思い出せない。佐藤に、よろしくと伝言を頼んだ時は、ただ、あの中尉君と書いた。ここに某中尉《ぼうちゅうい》などとよそよそしく取り扱うのはあまり失礼だから、やむをえずA君としておいた。
 A君の親切に説明してくれた戦利品の一々を叙述したら、この陳列所だけの記載でも、二十枚や三十枚の紙数では足るまいと思うが、残念な事にたいてい忘れてしまった。しかしたった一つ覚えているものがある。それは女の穿《は》いた靴の片足である。地《じ》が繻子《しゅす》で、色は薄鼠《うすねずみ》であった。その他の手投弾《てなげだん》や、鉄条網や、魚形水雷や、偽造の大砲は、ただ単なる言葉になって、今は頭の底に判然《はっきり》残っていないが、この一足の靴だけは色と云い、形と云い、いつなん時《どき》でも意志の起り次第|鮮《あざやか》に思い浮べる事ができる。
 戦争後ある露西亜《ロシア》の士官がこの陳列所一覧のためわざわざ旅順まで来た事がある。その時彼はこの靴を一目|観《み》て非常に驚いたそうだ。そうしてA君に、これは自分の妻の穿《は》いていたものであると云って聞かしたそうだ。この小さな白い華奢《きゃしゃ》な靴の所有者は、戦争の際に死んでしまったのか、またはいまだに生存しているものか、その点はつい聞き洩《も》らした。

        二十四

 今までは白馬《しろうま》を着けた佐藤の馬車に澄まして乗っていたが、山へかかるや否や、例の泥だらけの掘出しものの中へ放り込まれてしまった。とうてい普通の馬車では上がれないと云うんだからやむをえない。それでも露西亜人《ロシアじん》だけあって、眼にあまる山のことごとくに砲台を構えて、その砲台のことごとくに、馬車を駆《か》って頂辺《てっぺん》まで登れるような広い路《みち》をつけたのは感心ですとA君が語られる。実際その当時は奇麗《きれい》な馬車を傷《いた》めずに、心持よく砲台のある地点まで乗りつけられたものと見える。ところが戦争がすんで往復の必要がなくなったので、せっかくできた山路に手を入れる機会を失ったため、我々ごとき物数奇《ものずき》は、かように零落《れいらく》した馬車をさえ、時々復活させる始末になるのである。元来旅順ほど小山が四方《よも》に割拠《かっきょ》して、禿頭を炎天に曝《さら》し合《あ》っている所はない。樹《き》が乏しい土質《どしつ》へ、遠慮のない強雨《ごうう》がどっと突き通ると、傾斜の多い山路の側面が、すぐ往来へ崩《くず》れ出す。その崩れるものがけっして尋常の土じゃない。堅い石である。しかも頑固《がんこ》に角張《かどば》っている。ある所などは、五寸から一尺ほどもあろうと云う火打石のために、累々《るいるい》と往来を塞《ふさ》がれている。零落した馬車は容赦なく鳴動《めいどう》してその上を通るのだから、凸凹《でこぼこ》の多い川床《かわどこ》を渡るよりも危険である。二百三高地《にひゃくさんこうち》へ行く途中などでは、とうとうこの火打石に降参して、馬車から下りてしまった。そうして痛い腹を抱《かか》えながら、膏汗《あぶらあせ》になって歩いたくらいである。鶏冠山《けいかんざん》を下りるとき、馬の足掻《あがき》が何だか変になったので、気をつけて見ると、左の前足の爪の中に大きな石がいっぱいに詰《はま》っていた。よほど厚い石と見えて爪から余った先が一寸《いっすん》ほどもある。したがって馬は一寸がた跛《ちんば》を引いて車体を前へ運んで行く訳になる。席から首を延ばして、この様子を見た時は、安んじて車に乗っているのが気の毒なくらい、馬に対して痛わしい心持がした。御者《ぎょしゃ》に注意してやると、御者は支那語で何とか云いながら、鞭《むち》を棄《す》てて下へ下りたが、非常に固く詰《つま》っていたと見えて、叩《たた》いても引っ張っても石が取れないので、またのそのそ御者台へ上がった。そうして、
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