だのならまだよかったけれども、片方の輪だけが泥の中へぐしゃぐしゃと滅《め》り込《こ》むと同時に、片方は依然として固い土に支えられている。余は泥側《どろがわ》に席を占めていた。すると足が土と擦《す》れ擦れになるまで車が濘海《ぬかるみ》に沈んで来た。番頭は余の頭の上にあるごとく感ぜられた。余はたまらなくなって、泥の中へ飛び下りた。

        五十

 原が急に叢《くさむら》に変化するのは不思議であった。ここにこれだけの樹《き》が生えるなら、原の中ももう少し茂って然《しか》るべきであると気がついた時はすでに車の両側が塞《ふさ》がっていた。竹こそないが、藪《やぶ》と云うのが適当と思われるくらいな緑の高さだから、日本の田舎道《いなかみち》を歩くようなおとなしい感じである。ところどころ細い枝などが列を外《はず》れて往来へ差し出ているのを、通りながら潜《くぐ》り抜《ぬ》けたり、撓《しな》わしたりして行き過ぎるのが何より愉快だった。路も先刻《さき》よりは平《ひら》たくなって、真白に草と木の間を貫《つらぬ》いている。ある所には大きな松があった。葉の長さが日本の倍もあって色は海辺《うみべ》のそれよりも黒い。ある所は荒れ果てた庭園の体《てい》に見えた。そう云う場所へ来ると、馬車の上から低い雑木《ぞうき》を一目《ひとめ》に二丁も眺められる。向うに細長い石碑が立っていた。模様だけが薄く見えるが、刻字《こくじ》は無論分らなかった。
 しばらくすると、路が尽きて高い門の下へ出た。門は石を畳《たた》んだ三つのアーチからでき上っているが、アーチの下まで行くにはだいぶ高い石段を登らなくてはならない。門の左右には大きな竜が壁に彫《ほ》り込《こ》んであった。これが正門ですがね、締切りだから壁へ添《つ》いて廻るんですと云って、馬を土堤《どて》のような高い所へ上げた。右は煉瓦《れんが》の壁である。それがところどころ崩《くず》れかかっている。左はだらだらの谷で野葡萄《のぶどう》や雑木が隙間《すきま》なく立て込んだ。路は馬車が辛《かろ》うじて通れるぐらい狭い。そこを廻って横手の門から車を捨てて這入《はい》ると、眼がすっきりと静まった。一抱《ひとかかえ》もある松ばかりが遥《はるか》の向《むこう》まで並んでいる下を、長方形の石で敷きつめた間から、短い草が物寂《ものさ》びて生えている。靴の底が石に落ちて一歩ごとに鳴った。一丁ばかり行って正面に曲ると、左右に石の象がいた。大きくって、鷹揚《おうよう》で、しかも石だからはなはだ静かである。突き当りにある楼門のような所へ這入ったら、今度は大きな亀の背に頌徳碑《しょうとくひ》が立ててあった。亀も大きかったが、碑も高い。蒙古と満洲と支那の三国語で文章が刻ってある。後へ出ると隆恩門《りゅうおんもん》と云うのが空に聳《そび》えていた。積み上げたアーチの上を見ると三層あった。左右に回《めぐ》らしてある壁も尋常ではない。あの上を歩いて見たいと番頭に頼むと、ええ今乗って見ましょうと云って中へ這入った。中は真四角に仕切ってある。正面にある廟《びょう》の横から石段を登って壁の上へ出ると、廟《びょう》の後《うしろ》だけが半月形《はんげつけい》になっていわゆる北陵《ほくりょう》を取り巻いている。
 支那の小僧が跣足《はだし》で跟《つ》いて来た。番頭を捕《つら》まえてしきりにこそこそ何か云っている。番頭に聞くと、ええなにと曖昧《あいまい》な答をする。また聞き返したらこう云った。――屋根の廂《ひさし》の所に着けてある金の玉を、この間一つ落ちた時に、拾っておいたから、買ってくれと云うんです。表向《おもてむき》にすると厳《きび》しいものですから、こうして見物に来た時、そうっと売りつけようてんで、支那人は実《じつ》に狡猾《こうかつ》ですからね。
 支那の陵守《りょうもり》も無論狡猾だろうが、金の玉を安く買おうと云う番頭もあまり正直な方じゃない。番頭はそっと銭《ぜに》をやって金の玉をポッケットへ入れたようである。
 壁の上を歩くと太い樹が眼の下に見える。桑があんなに大きくなってますと番頭が指《ゆびさ》した。なるほど一抱《ひとかかえ》もある。この四角な壁の一側《ひとかわ》は長さどのくらいかねと尋ねると、へえ今|勘定《かんじょう》して見ましょうと云いながら、一歩《ひとあし》二尺の割で、一二三四と歩いて行った。余は壁の外を見下《みおろ》して、そこらを絡《から》んでいる赤い木の実を眺めていた。せっかく番頭の勘定した壁の長さは忘れてしまった。

        五十一

 撫順《ぶじゅん》は石炭の出る所である。そこの坑長《こうちょう》を松田さんと云って、橋本が満洲に来る時、船中で知己《ちかづき》になったとかで、その折の勧誘通り明日《あす》行くと云う電報を打った。汽車に乗ると西洋人が二人いた。朝早いので、客車内で持参の弁当か何か食っていたが、撫順に着いたら我々といっしょに汽車を降りた。出迎えのものが挨拶《あいさつ》しているところを聞いて見ると、そのうちの一人は奉天の英国領事であった。我々もこの英人等といっしょに炭坑の事務室に行って、二階で松田さんに逢った。松田さんは縞《しま》の縮《ちぢみ》の襯衣《シャツ》の上に薄い背広を着ていた。背の低い気軽な人なので、とうてい坑長とは思えなかった。我々と英国人を二所《ふたところ》に置いて、双方へ向けて等分に話をした。橋本も余も英語はいっさい口にしなかった。したがって英人とは言葉を交《まじ》えなかった。
 やがて松田さんが案内になって表へ出た。貯水池の土堤《どて》へ上《あが》ると、市街が一目に見える。まだ完全にはでき上っていないけれども、ことごとく煉瓦作《れんがづく》りである上に、スチュジオにでも載りそうな建築ばかりなので、全く日本人の経営したものとは思われない。しかもその洒落《しゃれ》た家がほとんど一軒ごとに趣《おもむき》を異《こと》にして、十軒|十色《といろ》とも云うべき風に変化しているには驚いた。その中には教会がある、劇場がある、病院がある、学校がある、坑員の邸宅は無論あったが、いずれも東京の山の手へでも持って来て眺めたいものばかりであった。松田さんに聞いたら皆日本の技師の拵《こしら》えたものだと云われた。
 市街から眼を放して反対の方角を眺めると、低い丘の起伏している向うに煙突の頭が二カ所ほど微《かす》かに見える。双方共距離はたしかに一里以上あるんだから広い炭坑に違ない。松田さんの話しによると、どこをどう掘っても一面の石炭だから、それを掘尽くすには百年でも二百年でもかかるんだそうである。我々の立っているつい傍《そば》でも、八百尺と九百尺のシャフトを抜いていた。
 事務所へ帰って午餐《ひるめし》の御馳走《ごちそう》になったとき英国人は箸《はし》も持てず米も喰えず気の毒なものであった。この領事は支那に十八年とかいたと云うのに、二本の箸を如何《いかん》ともする事のできないのは案外である。その代り官話《かんわ》は達者だそうだ。松田さんは用事が忙《いそが》しいとかで、食卓へは出て来られなかった。接待役として松田さんに代った人は、英語で英国人に話したり、日本語で余等に話したりはなはだ多事であった。けれども橋本氏も余もこの時まで英語はいっさい使わなかった。元来英人と云うものはプラウドな気風を帯びていて、紹介されない以上は、他《ひと》に向って容易に口を利《き》かない。だから我々も英人に対しては同様にプラウドである。
 食後は坑内を見物する事になった。田島君という技師が案内をしてくれた。入口で安全灯を五つ点《とも》して、杖を五本用意して、それを各自《めいめい》に分けて、一間四方ぐらいの穴をだらだらと下りた。十四五間行くか行かないに坑《あな》のなかは真暗《まっくら》になった。カンテラの灯《ひ》は足元を照らすにさえ不足である。けれども路は存外平らで、天井《てんじょう》もかなり高かった。右へ曲って、探るように下りて行くと、余のすぐ前にいる田島君がぴたりととまった。余もとまった。案内がとまったから、あとから続いて来たものもことごとくとまった。ここに腰かけがあります。坑へ這入《はい》るものはここで五六分休んで眼を慣らすんですと云った。五人は休みながらカンテラの灯で互の顔を見合わした。みんな立って黙っている。腰をおろすものは一人もない。静かな中で時の移るのは多少|凄《すご》かった。そのうち暗い所が自然と明るくなって来た。田島君はやがて、もうよかろうと云って、またすぐ右へ曲って、奥へ奥へと下りて行った。余も続いて下りた。あとの三人も続いて下りて来た。
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ここまで新聞に書いて来ると、大晦日になった。二年に亘るのも変だからひとまずやめる事にした。
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底本:「夏目漱石全集7」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年4月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年6月20日公開
2004年2月28日修正
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