《から》まる竹も杖《つえ》もないので、蔓《つる》と云わず、葉と云わず、花を包んで雑然と簇《むら》がるばかりである。朝顔の下はすぐ崖《がけ》で、崖の向うは広い河原《かわら》になる。水は崖の真下を少し流れるだけであった。
 橋本と余は、申し合せたように立って窓から外を眺めていた。首を出すと、崖下にも家が一軒ある。しかし屋根瓦《やねがわら》しか見えない。支那流の古い建物で、廻廊のような段々を藉《か》りて、余のいる部分に続いているらしく思われる。あれは何だいと聞いて見た。料理場と子供を置く所になっていますと答えた。子供とは酌婦《しゃくふ》芸妓《げいしゃ》の類《たぐい》を指《さ》すものだろうと推察した。眼の下に橋が渡してある。厚くはあるが幅一尺足らずの板を八つ橋に継《つ》いだものに過ぎない。水はただ砂を洗うほどに流れている。足の甲を濡《ぬ》らしさえすれば徒歩渉《かちわた》るのは容易である。橋本の後《あと》に食付《くっつ》いて手拭《てぬぐい》をぶら下げて、この橋を渡った時、板の真中で立ち留まって、下を覗《のぞ》き込んで見たら、砂が動くばかりで水の色はまるでなかった。十里ほど上《かみ》に遡《さかの》ぼると鮎《あゆ》が漁《と》れるそうだ。余は汽車の中で鮎のフライを食って満洲には珍らしい肴《さかな》だと思った。おそらくこの上流からクーリーが売りに来たものだろう。

        三十三

 足駄《げた》を踏むとざぐりと這入《はい》る。踵《くびす》を上げるとばらばらと散る。渚《なぎさ》よりも恐ろしい砂地である。冷たくさえなければ、跣足《はだし》になって歩いた方が心持が好い。俎《まないた》を引摺《ひきず》っていては一足《ひとあし》ごとに後《あと》しざるようで歯痒《はがゆ》くなる。それを一町ほど行って板囲《いたがこい》の小屋の中を覗《のぞ》き込むと、温泉《ゆ》があった。大きい四角な桶《おけ》を縁《ふち》まで地の中に埋《い》け込《こ》んだと同じような槽《ふね》である。温泉はいっぱい溜《たま》っていたが、澄み切って底まで見える。いつの間に附着したものやら底も縁も青い苔《こけ》で色取られている。橋本と余は容赦なく湯の穴へ飛び込んだ。そうして遠くから見ると、砂の中へ生埋《いきうめ》にされた人間のように、頭だけ地平線の上に出していた。支那人の中には、実際生埋になって湯治《とうじ》をやるものがある。この河原《かわら》の幅は、向うに見える高粱《こうりょう》の畠《はたけ》まで行きつめた事がないからどのくらいか分らないが、とにかく眼が平《たいら》になるほど広いものである。その平《たい》らなどこを、どう掘っても、湯が湧《わ》いて来るのだから、裸体《はだか》になって、手で砂を掻《か》き分けて、凹《くぼ》んだ処《ところ》へ横になれば、一文も使わないで事は済む。その上寝ながら腹の上へ砂を掛ければ、温泉の掻巻《かいまき》ができる訳である。ただ砂の中を潜《もぐ》って出る湯がいかにも熱い。じくじく湧《わ》いたものを、大きな湯槽《ゆぶね》に溜めて見ると、色だけは非常に奇麗《きれい》だが、それに騙《だま》されてうっかり飛び込もうものなら苛《ひど》い目に逢《あ》う。橋本と余は、勢いよく浴衣《ゆかた》を抛《な》げて、競争的に毛脛《けずね》を突込《つっこ》んで、急に顔を見合せながら縮《ちぢ》んだ事がある。大の男がわざわざ裸になって、その裸の始末をつけかねるのはきまりが好いものじゃないから、両人《ふたり》は顔を見合せて苦笑しながら小屋を飛び出して、四半丁《しはんちょう》ほど先の共同風呂まで行って、平気な風にどぼりと浸《つか》った。
 風呂から出て砂の中に立ちながら、河の上流を見渡すと、河がぐるりと緩《ゆる》く折れ曲っている。その向う側に五六本の大きな柳が見える。奥には村があるらしい。牛と馬が五六頭水を渉《わた》って来た。距離が遠いので小さく動いているが、色だけは判然《はっきり》分る。皆茶褐色をして柳の下に近づいて行く。牛追は牛よりもなお小さかった。すべてが世間で云う南画《なんが》と称するものに髣髴《ほうふつ》として面白かった。中にも高い柳が細い葉をことごとく枝に収めて、静まり返っているところは、全く支那めいていた。遠くから望んでも日本の柳とは趣《おもむき》が違うように思われた。水は柳の茂るところで見えなくなっているが、なおその先を辿《たど》って行くと、たちまち眼にぶつかるような大きな山脈がある。襞《ひだ》が鋭く刻まれているせいか、ある部分は雪が積ったほど白く映る。そのくらいに周囲はどす黒かった。漢語には崔嵬《さいかい》とか※[#「山+贊」、第4水準2−8−72]※[#「山+元」、第3水準1−47−69]《さんがん》とか云って、こう云う山を形容する言葉がたくさんあるが、日本には一つも見当らない。あれは何と云う山だろうと傍《そば》にいる大重君《おおしげくん》に尋ねたら、大重君も知らなかった。大重君は支那語の通訳として橋本に随《つ》いて蒙古《もうこ》まで行った男である。余の質問を受けるや否やどこかへ消えて無くなったが、やがて帰って来て、高麗城子《こまじょうし》と云うんだそうですと教えてくれた。土人を捕《つら》まえて聞いて来たのだそうである。固《もと》より支那音《しなおん》で教わったのだが、それは忘れてしまった。
 濡《ぬ》れ手拭《てぬぐい》を下げて、砂の中をぼくぼく橋の傍《そば》まで帰って来ると、崖《がけ》の上から若い女が跣足《はだし》で降りて来た。橋は一尺に足らぬ幅だからどっちかで待ち合せなければなるまいと思ったが、向うはまだ土堤《どて》を下《お》りきらないので、こっちは躊躇《ちゅうちょ》せず橋板《はしいた》に足をかけた。下駄《げた》を二三度鳴らして、一間ほど来たとき、女も余と同じ平面に立った。そこで留まると思いのほか、ひらひらと板の上を舞うように進んで余に近づいた。余と女とは板と板の継目《つぎめ》の所で行き合った。危《あぶ》ないよと注意すると、女は笑いながら軽い御辞儀《おじぎ》をして、余の肩を擦《こす》って行き過ぎた。

        三十四

 明日《あした》は梨畑《なしばたけ》を見に行くんだと橋本から申し渡されたので、宜《よろ》しいと受合った上、床《とこ》についたようなものの実を云うと例のトロで揺られるのが内心|苦《く》になった。そのせいでもなかろうが、容易に寝つかれない。橋本はもう鼾《いびき》をかいている。しかも豪宕《ごうとう》な鼾である。緞子《どんす》の夜具《やぐ》の中から出るべき声じゃない。まして裾《すそ》の方には金屏風《きんびょうぶ》が立て回してある。
 明日になると、空が曇って小雨《こさめ》が落ちている。窓から首を出して、一面に濡《ぬ》れた河原《かわら》の色を眺めながら、おれは梨畑をやめて休養しようかしらと云い出した。橋本は合羽《かっぱ》ももっているし、オヴァーシューも用意して来ているのでなかなか景気が好い。ことに農科の教授だけあって、梨を見たがったり、栗を見たがったり、豚や牛を見たがる事人一倍である。早速用意をして大重君を伴《つ》れて出て行った。余はただつくねんとして、窓の中に映る山と水と河原と高粱《こうりょう》とを眼の底に陳列さしていた。薄く流れる河の厚さは昨日《きのう》と同じようにほとんど二三寸しかないが、その真中に鉄の樋竹《といだけ》が、砂に埋《うも》れながら首を出しているのに気がついたので、あれは何だいと下女に聞いて見た。あれはボアリングをやった迹《あと》ですと下女が答えた。満洲の下女だけあって、述語《じゅつご》を知っている。ついこの間雨が降って、上《かみ》の方から砂を押し流して来るまでは、河の流れがまるで違った見当を通っていたので、あすこへ湯場《ゆば》を新築するつもりであったのだと云う。河の流れが一雨《ひとあめ》ごとに変るようでは、滅多《めった》なところへ風呂を建てる訳にも行くまい。現に窓の前の崖《がけ》なども水にだいぶん喰われている。
 そのうち雨が歇《や》んだ。退屈だから横になった。約十分も立ったと思う頃、下女がまたやって来て、ただいま駅から電話がかかりまして、これから梨畑へおいでになるなら、駅からトロを仕立てますがと云う問い合せである。雨が歇んだので、座敷に寝ている口実はもう消滅してしまったが、この上トロを仕立てられては敵《かな》わないと思って、わざわざ晴かかった空を見上げて、八の字を寄せた。
 今から行って間に合うのかなと尋ねると、器械トロだから汽車と同じぐらい早いんだと云う話である。胃は固《もと》より切《せつ》ないほど不安であるが、汽車と同じ速度の器械トロなるものにも、心得のためちょっと乗って見たいような気がしたので、つい手軽に仕度《したく》を始めた。すると隣の部屋に泊っていた御客さんが三四人、十一時の汽車で大連へ行くとか云って、同じように仕度を始めた。それを送る下女も仕度を始めた。したがって同勢はだいぶんになった。その中に昨日《きのう》橋の途中で行き合った女がいた。それが余と尻合《しりあわ》せに同じ車に乗る事になった。互に尻を向けているので、別段口も利《き》かなかった。顔もよくは見なかった。が、その言葉だけはたしかに聞いた。しかも支那語である。固《もと》より意味は通じない。しかし盛んにクーリーをきめつけていた。その達弁なのはまた驚くばかりである。昨日微笑しながら御辞儀《おじぎ》をして、余の傍《わき》を摺《す》り抜《ぬ》けた女とはどうしても思えなかった。この女は我々の立つ前の晩に、始めて御給仕に出て来た。洋灯《ランプ》の影で御白粉《おしろい》をつけている事は分ったが、依然として口は利かなかった。
 苦しい十五分の後《のち》車はまた停車場《ステーション》に着いた。御客はすぐ汽車に乗って大連の方へ去った。下女はみんな温泉宿へ帰った。余は独《ひと》り構内を徘徊《はいかい》した。いわゆる器械トロなるものは姿さえ見せない。そこへ駅員が来て、今|松山《まつやま》を出たそうですからと断った。その松山は遥《はるか》向うにある。余は軌道《レール》の上に立って、一直線の平たい路《みち》を視力のつづく限り眺めた。しかしトロの来る気色《けしき》はまるでなかった。

        三十五

 宿屋の者ともつかず、駅の者ともつかない洋服を着た男がついて来た。この男の案内で村へ這入《はい》ると、路は全く砂である。深さは五六寸もあろうと思われた。土で造った門の外に女が立っていたが、我々の影を見るや否や逃げ込んだ。手に持った長い煙管《きせる》が眼についた。犬が門の奥でしきりに吠える。そのうちに村は尽きて松山にかかった。と云うと大層だが、実は飛鳥山《あすかやま》の大きいのに、桜を抜いて松を植替えたようなものだから、心持の好い平庭《ひらにわ》を歩るくと同じである。松も三四十年の若い木ばかり芝の上に並んでいる。春先《はるさき》弁当でも持って遊《あそび》に来るには至極《しごく》結構だが、ところが満洲だけになお珍らしい。余は痛い腹を抑《おさ》えて、とうとう天辺《てっぺん》まで登った。するとそこに小さな廟《びょう》があった。正面に向って、聯《れん》などを読んでいると、すぐ傍《そば》で梭《おさ》の音がする。廟守《びょうもり》でもおりそうなので、白壁を切り抜いた入口を潜《くぐ》って中へ這入った。暗い土間を通り越して、奥を覗《のぞ》いて見たら、窓の傍《そば》に機《はた》を据《す》えて、白い疎髯《そぜん》を生やした爺《じい》さんが、せっせと梭を抛《な》げていた。織っていたものは粗《あら》い白布《しろぬの》である。案内の男が二言《ふたこと》三言《みこと》支那語で何か云うと、老人は手を休めて、暢気《のんき》な大きい声で返事をする。七十だそうですと案内が通訳してくれた。たった一人でここにいて、飯はどうするのだろうと、ついでに通訳を煩《わずら》わして見た。下の家から運んでくるものを食っているそうであった。その下の家と云うのがすなわち梨畠《なしばたけ》の主人のところだと案内は説明した。
 やがて、山
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