れて、星が遠くに見える晩であったが、月がないので往来は暗かった。危《あぶ》のうございますから御案内を致しましょうと云って、ホテルの小僧がついて来た。草の生えた四角な空地《あきち》を横切って、瓦斯《ガス》も電気もない所を、茫漠《ぼうばく》と二丁ほど来ると、門の奥から急に強い光が射した。玄関に女が二三人出ている。我々の来るのを待っていたような挨拶をした。座敷は畳が敷いて胡坐《あぐら》がかけるようになっていた。窓を見ると、壁の厚さが一尺ほどあったので、始めて普通の日本家屋でないと云う事が解った。窓の高さは畳から一尺に足りないから、足をかけると厚い壁の上に乗る事ができる。女が危のうございますと云った。外を覗《のぞ》いたら真闇《まっくら》に静かであった。
 女は三四人で、いずれも東京の言葉を使わなかった。田中君はわざと名古屋訛《なごやなまり》を真似《まね》て調戯《からか》っていた。女は御上手だ事とか、御上手やなとか、何とか云って賞《ほ》めていた。ところが前触《まえぶれ》のスキ焼はなかなか出て来ない。酒を飲まないで、肴《さかな》を突っついて手持無沙汰《てもちぶさた》であった。スキ焼があらわれても、胃の加減で旨《うま》くも何ともなかった。天下に何が旨いってスキ焼ほど旨いものは無いと思うがねと田中君が云った。田中君はスキ焼の主唱者だけあって、大変食べた。傍《はた》で見ていて羨《うらや》ましいほど食べた。余はしようがないから畳の上に仰向《あおむき》に寝ていた。すると女の一人が枕を御貸し申しましょうかと云いながら、自分の膝《ひざ》を余の頭の傍《そば》へ持って来た。この枕では御気に入りますまいとか何とか弁じている。結構だから、もう少しこっちの方へ出してくれと頼んで、その女の膝の上に頭を乗せて寝ていた。不思議な事に、橋本も活動の余地がないものと見えて、余と同様の真似《まね》をして、向うの方に長くなっている。枕元では田中君が女を相手に碁石《ごいし》でキシャゴ弾《はじ》きをやって大騒ぎをしている。余があまり静《しずか》だものだから、膝を貸した女は眠ったのだと思って、顋《あご》の下をくすぐった。
 帰るときには、神《かみ》さんらしいものが、しきりに泊って行けと勧めた。門を出るとまた急に暗くなった。森閑《しんかん》として人の気合《けわい》のない往来をホテルまで、影のように歩いて来て、今までの派出《
前へ 次へ
全89ページ中50ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング