と少し話しているところへ、また御客があらわれた。ボイの持って来た名刺には東北大学教授|橋本左五郎《はしもとさごろう》とあったので、おやと思った。
 橋本左五郎とは、明治十七年の頃、小石川の極楽水《ごくらくみず》の傍《そば》で御寺の二階を借りていっしょに自炊《じすい》をしていた事がある。その時は間代《まだい》を払って、隔日に牛肉を食って、一等米を焚《た》いて、それで月々二円ですんだ。もっとも牛肉は大きな鍋《なべ》へ汁をいっぱい拵《こしら》えて、その中に浮かして食った。十銭の牛《ぎゅう》を七人で食うのだから、こうしなければ食いようがなかったのである。飯は釜《かま》から杓《しゃく》って食った。高い二階へ大きな釜を揚《あ》げるのは難義であった。余はここで橋本といっしょに予備門へ這入《はい》る準備をした。橋本は余よりも英語や数字において先輩であった。入学試験のとき代数がむずかしくって途方に暮れたから、そっと隣席の橋本から教えて貰って、その御蔭《おかげ》でやっと入学した。ところが教えた方の橋本は見事に落第した。入学をした余もすぐ盲腸炎に罹《かか》った。これは毎晩寺の門前へ売りに来る汁粉《しるこ》を、規則のごとく毎晩食ったからである。汁粉屋は門前まで来た合図に、きっと団扇《うちわ》をばたばたと鳴らした。そのばたばた云う音を聞くと、どうしても汁粉を食わずにはいられなかった。したがって、余はこの汁粉屋の爺《おやじ》のために盲腸炎にされたと同然である。
 その後《のち》左五《さご》は――当時余等は橋本を呼んで、左五左五と云っていた。実際彼は岡山の農家の生れであった。――左五はその後追試験に及第したにはしたが、するかと思うとまた落第した。そうして、何だ下らないと云って北海道へ行って農学校へ這入《はい》ってしまった。それから独逸《ドイツ》へ行った。独逸へ行って、いつまで経《た》っても帰らない。とうとう五年か六年かいた。つまり留学期限の倍か倍以上も向うで暮した事になる、その費用はどうして拵えたものかとんと分らない。
 この橋本が不思議にも余より二三月前に満鉄の依頼に応じて、蒙古《もうこ》の畜産事状を調査に来て、その調査が済んで今大連に帰ったばかりのところへ出っ食わしたのである。顔を見ると、昔から慓悍《ひょうかん》の相《そう》があったのだが、その慓悍が今蒙古と新しい関係がついたため、すこぶる活
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