うとしかけたところへ、ボーイ頭《がしら》が来て、ただいま総裁からの電話で、今夜舞踏会へおいでになるか伺《うかが》えと云う事でございますがと云うから、行かないと返事をしてくれと頼んで、本当に寝てしまった。眼が覚《さ》めたら雨はいつの間にか歇《や》んで、奇麗《きれい》な空が磨き上げたように一色《ひといろ》に広く見える中に、明かな月が出ていた。余は硝子越《ガラスごし》にこの大きな色を覗《のぞ》いて、思わず是公のために、舞踏会の成功を祝した。
 後で本人に聞いて見ると、是公はその夜舞踏の済んだ後で、多数の亜米利加士官《アメリカしかん》と共に倶楽部《クラブ》のバーに繰り込んだのだそうだ。そこで、士官連が是公に向って、今夜の会は大成功であるとか、非常に盛《さかん》であったとか、口々に賛辞を呈《てい》したものだから、是公はやむをえず、大声《たいせい》を振り絞《しぼ》って gentlemen《ゼントルメン》! と叫んだ。すると今までがやがや云っていた連中が、総裁の演説でも始まる事と思って、一度に口を閉《と》じて、満場は水を打ったように静かになった。是公は固《もと》よりゼントルメンの後《あと》を何とかつけなければならない。ところがゼントルメン以外の英語があいにく一言《ひとこと》も出て来なかった。英語と云う英語は頭の底からことごとく酒で洗い去られてしまっているので、仕方なしに、急に日本語に鞍換《くらがえ》をして、ゼントルメンの次へもってきて、すぐ大いに飲みましょうと怒鳴《どな》った。ゼントルメン大いに飲みましょうは、たいていの亜米利加人《アメリカじん》に通じる訳のものではないが、そこがバーのバーたるところで、ゼントルメン大いに飲みましょうとやるや否や、士官連がわあっと云って主人公を胴上《どうあげ》にしたそうである。
 明治二十年の頃だったと思う。同じ下宿にごろごろしていた連中が七人ほど、江の島まで日着《ひづき》日帰《ひがえ》りの遠足をやった事がある。赤毛布《あかげっと》を背負《しょ》って弁当をぶら下げて、懐中にはおのおの二十銭ずつ持って、そうして夜の十時頃までかかって、ようやく江の島のこっち側《がわ》まで着いた事は着いたが、思い切って海を渡るものは誰もなかった。申し合せたように毛布《けっと》に包《くる》まって砂浜の上に寝た。夜中に眼が覚《さ》めると、ぽつりぽつりと雨が顔へあたっていた。
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